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最後の施術

父親が亡くなる前、私はヒーリングタッチの施術を誰かのためにしたことがほぼなかった。父は心疾患や糖尿の合併症で亡くなったのだけれど、その直前に父の丸まった背中を見ながら、朧げにもうそんなに長くはないのだろうなと感じていた。けれど私は父の体に触れることはしなかった。当時自分が父親の体に触れるというのがなんだか気恥ずかしくもあったかもしれない。

父の死後、気功の師匠の元で色んな病気を持つ方々に施術させていただくことになり、初めて病気を持つ体の内部の振動を肌で感じるようになった。傍から眺めていただけでは分からなかったが、実際にからだに触れ、その内部の有り様を感じられるようになってくると、痛みと辛さの振動が、自分の身にそのまま伝播され沁みるようになった。それと同時に、亡くなる前の父親が、どれだけ体が辛かったかというのも初めて骨身に沁みてくる思いがした。父の体は既に臓器血管がボロボロだったので、何にせよそんなに長生きはできなかったかもしれない、それでも、あのとき少しでも自分が背中をさすってあげていたら、痛みは幾分も和らいでいただろうと思う。

なので、持病をお持ちの方、ご高齢の方に施術させていただくときは、いつもどこかで、過去に自分が痛みに寄り添うことのなかった父やその他の人々の分まで、触れさせていただくように思う。そう考えると、過去の肉親の死という出来事が、今目の前の人のいのちを生かすよう私を突き動かしているのだから、いのちというのは決してその個体が死んだら終わりというものではない、いのちというものを、もっと大きな全体として観たときに、起こる一つひとつの出来事は、次への生命力や他の人を活かそうとする根源の力となって新たな人の中に甦り続けていくように思う。それを自分の身を犠牲にしてまで教えてくれた父にこころから感謝している。

バリ島に来てからずっと施術させていただいた方がいよいよ日本に帰国することになった。年齢を考えるともうバリへは戻って来られないだろう。最後の施術かと思い感慨深い。御本人は、施術中、バリでの美しい思い出を語って下さった。

体のどこもかしこも痛みや疲弊で、鼓動が不可思議なリズム。身体が次の状態へと変遷してゆく時期が近づいていることをご本人もよく承知されている。

周りの者にできることは、ただ体にそっとふれてあげること、さすってあげること、それにより痛みや不快をなるべく軽減し、苦痛が減るようにしていくこと。存在を聴くこと。

一昔前は亡くなりゆく人間は自宅で看取るのが普通だった。赤子の誕生も老人の死もいつもそこにあって、人はいのちのいとなみに日々接していた。そこに恐らく大きな恐怖はなかっただろうと思う。

今や高齢者は病院に隔離され、面会もできないという世の中。人が人らしく生き(逝き)、苦痛もなるべく少なく自然に次の状態へと変遷してゆける環境とは、人間通しが身体を触れあい、場を共有しあい、目に見えないエネルギーを交換しあっている状態なのではないかと思う。そもそもいのちは細胞として羊水の中で生まれた。羊水という母の胎内のいのちの水に、包まれて抱かれながらいのちは育っていく。抱かれること、抱きしめられることで、安心と安全の元、いのちは健やかに自然に育ってゆく。ならば、生きている間も、亡くなってゆく時も、手を握って、抱かれ、触れ合っていたい。

人に触れてはいけないなんて、人の持つ生命力を削ぎ落とす行為に他ならないように思われる。この2年半、政府とマスコミは一体となって、あるウイルスによる感染症が危ないのだと人に恐怖を与え、先導した。実はそのウイルスは、未だ存在も実証されていないのだが、反論する科学者や専門家の意見は封じ込められ、その代わりに多大な金銭的報酬を受け取った、政府に都合の良い弁論をする専門家だけがメディアに登場した。

人に触れてはいけないと言い、マスクはエチケットだと言って息(生き)をしづらくし、さらなる対応策だと言って、殺人兵器の注射を打たせることに成功したのだから、実にこの枠組みをデザインした人々のやり方は巧妙だと唸らざるを得ない。人間の身体は、その自然なはたらきとして、体内に入った毒を自然に呼気や汗などで排出しようとする。注射を接種すると、体がその強烈な毒素を排出したいと拡散するので、本当に、人が人に触れることもある種難しくなってしまった。実存しなかったものに対する恐怖が、病を現実化させた。

いのちの体感覚から人はますます離れ、スマホの中に生き、孤独に、からだとのつながりも人とのつながりも断ち切られ、生きたまま死んでゆく。人間は、いまや動物や人間という生きた生身の生き物という種別ではなく、ロボットや機械の一部と化されつつある。リアルではなく、バーチャルと画面の中だけに生きるようにと。

人らしく生きる瞬間を重ねていきたいものだ。生まれるときも、子ども時代も、壮年期も、最後も。

そうした状況を俯瞰してみると、今世の中で起こっている危機的な状況は、人間個人に対して、連綿と続くいのちの役割を全うし、自然と合致して生きろと、ありとあらゆる全方位から人間に呼びかけられているのだという風にも思える。そもそも、私たちはどんな存在だったのか。人らしく、動物らしく、自分を大切にし、他者や環境を大切にし、好きなことを表現しあい、笑って、安心安全の中、つながり合って共生する。そんな望みを、私たちは根底で持っていたということに気づく。それは、私たちの普遍的な望み。

しっかりといのちの根源と結びついてさえいれば、自分という存在は自ずから他のいのちと共鳴しあい、波紋を大きくし、それがまたいつしかいのちから離れてしまった存在にも、生き物であることを思い出す波となる。

いのちから切り離され、分断された社会が生み出されつつあることで、より一層私たちの肚の底の本能が発する願い、「人間として生きたい」という願いをくっきり色鮮やかにさせることになった。だとすると、今の不思議な世の中は人類の終末期などではない。ここから、生き物としての自分、ひととしての自分により回帰してゆく転換が起こっているのだとも言える。人間性を一度抑圧されたことで、私たちは、本来の自分の望みを自覚することができた。

顔を隠して表情を消してしまうことなく、存分に笑って、泣いて、触れ合って、ぶつかり合って、生きたいものだ。一度そんな人間らしい生活が全く遮断されてしまったのだから、尚更、私たちは、そんななんてことのない日常を喜び、顔を見せあって、笑って、怒って、話し、そうしたことができる美しさと歓びを、以前にも増して尊ぶことができるようになった。

私たちの、人間らしく生きたいという欲求が強く呼び覚まされた。こんな世界なら、近い将来は希望に溢れていると、私は思う。


トップの写真は、いつかの雨上がりにバリ島ウブドで見たダブルレインボー。「今虹が出てますよ!」と、写真をお送りした。


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