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“余分な情報”、その奥にある想い

スピッツの「ウサギのバイク」という歌をきいた。3分28秒の曲で、最初の1分半くらいは「ララララ~」とか「トゥトゥトゥトゥ~」で構成されている。なんか、それをきいてるとすごく心地よくて、歌詞になっていなくても想いが伝わってくる感じがした。そういう感覚は、インタビューも同じだと思う。


誰かにインタビューをするとき、“言葉にならない想い”によく出会う。

「うーん…」

話し始めるまでの数秒間とか、

「なんていうかな、」

頭の中で言語化しようとするときの表情とか、

「えっと、えっと、…」

戸惑いながらも言葉にしようとしてくれている姿勢とか。

そんな時間の後には、その人にとってとても大事な想いのこもった言葉が出されていると思う。こちらもそれを、できるだけ取りこぼさないように前のめりになってきいている。


そんな想いは、言葉になっている場合もある。

それは、話の本筋とは関係無さそうな“余分な情報”が出てくるとき。話の中の人間関係の説明とか、自分のそのときおかれてた環境とか。

例えば、「あそこのお店でこんなものを食べておいしかった」と伝えればいいところを

「こんな先輩と一緒に行ったんだけど」という言葉が入っていたら、わたしは「料理だけじゃなくて、その先輩との時間が楽しかったのかな」と想像する。そんな風に、直接的には言葉になっていなくても、その人の発している言葉には、一つ一つに想いがこもっていると思う。本人も気づかぬうちに。


なぜそう思うのかと言えば、自分がそうだからだ。文字数の制限が無い状態で書くわたしの記事、特に伝わるよりも表現を重視するものは、この余分な情報が多くなる。「自分はこんな厳しい環境の中でがんばっていたんだなぁ」とか「ここ、こだわってたなぁ」とか「この人との時間は楽しかったな」とか、表現している言葉の奥には自分の中の大切な想いがこもっている。そしてそんな余分な情報を書く時間が心地いい。そんな風に書いた文章は、たとえ読み返したときに時間が経っていたとしても、奥にこめた想いの一つ一つを鮮明にまた感じることができる。それもまた心地がいい。余分な情報が多ければ多いほど、そのときに自分が大事に持っていた想いが蘇ってくる。


振り返って文章にするとき、余分な情報をたくさん書きたくなるような人生ってきっとすてきだと思う。そんな人生を送りたい。

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