【短編小説】逆ナンのすゝめ 第8話
第8話
墓石に水をかけ、花を添えると、ちはるはお墓の前にしゃがみ、両手を合わせて目を瞑った。
彼女の後ろで俺も手を合わせる。お墓はきれいに掃除されていて、すでに花が添えられていた。墓碑には、沙都子さんの家の表札と同じ苗字が刻まれている。
側面には二人分の名前が刻んであった。どちらも男性の名前で、一つは十五年前、もう一つは三年前の日付になっている。
「わたしの婚約者でした」
いつのまにか、ちはるが立ち上がり、同じ墓碑銘を見ていた。
「それって、沙都子さんの息子さん?」
「ええ、そうです。彼とお父さんがここに眠っています」
「……そうか」
沙都子さんの家の仏壇には、二枚の写真があった。一枚はおそらく沙都子さんの旦那さんで、もう一枚は若い男だった。その笑顔は、沙都子さんとよく似ていた。
旦那さんと、息子さんを亡くされた人。あの明るさは、辛いことを乗り越えた強さが放つ輝きだったんだ。
「去年の彼の命日に、沙都子さんに言われたんです」
ちはるちゃん、お願い。あの子のお墓に、あなたの心も一緒に埋めないで。
幸せになって。あなたには誰よりも、そうなってほしいの。
「そして、約束したんです」
来年の命日には、彼氏を紹介してね。
「沙都子さんが言った『彼氏』っていうのは言葉のあやで、なにか別の方法でわたしが前向きに頑張っているということを証明できたらよかったんですけど」
毎日仕事をして、自分のための家事をして、たまにボルダリングに通う──そんな普通の日常以上のもの。
「沙都子さんみたいに、胸を張って言えることが見つけられなくて」
それで、最初の約束通り、彼氏を連れていくことにした。
「偽の恋人ですけど」
ちはるが笑った。そして、どこか遠くを見るように俺から目をそらした。
「彼との結婚は、わたしの両親から反対されていたんです。彼のお父さんが脳溢血で早く亡くなられたのを理由に。血管の細さは遺伝するからって」
悔しそうに眉を寄せる。
「彼と一緒に何度も説得しに行って、なんとか許してもらえました。でも婚約してすぐに、彼が病に倒れました」
声を詰まらせて、ちはるが言葉を切った。指を目頭にあてがい、ぱちぱちと瞬きして涙をこらえる。
「両親は、それ見たことか、もっと強く婚約を反対しておけばよかった。病気が治ったとしても、このまま破談にするべきだと」
黙ったままちはるの肩に目をやった。咳払いし、彼女が小さく息をついた。
「わたしは両親と縁を切りました。お葬式が済んだ後、彼が亡くなったことを電話で告げたのが最後です」
「……」
「だから、沙都子さんは、わたしのたった一人の大事なお母さんなんです」
ちはるが愛おしそうに墓石を見つめた。
「いつか沙都子さんも、ここに入るんですね。沙都子さんと、彼と、お父さん。わたしも一緒に入れてもらいたかった。家族になりたかった」
ちはるが目を瞑る。墓前に添えられた花が風に揺れた。
彼女が彼とゆっくり言葉を交わせるように、俺は少し離れたところをぶらぶら歩きながら、広い墓地を眺めていた。