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【小説】コトノハのこと 第9話

   第9話

 次の日の昼、私は図書館に隣接する広場のベンチに座っていた。平日だからか、それとも寒いせいか、子供の恰好の遊び場である広い敷地には誰の姿もない。

 妻は今朝になっても機嫌が戻っていない様子だった。こちらから「おはよう」と声をかけてみたが返事はなく、食事の間もずっと黙っている。

 食べ終えると、私は「出かけてくる」と言い置いて家を出た。図書館は歩いて十分ほどの場所にある。

 ここで夕方まで過ごせば、不必要な会話は避けられるし、妻の機嫌を損ねることもない。無言で過ごすのに、図書館は最適な場所だった。今の私にはぴったりだ。

 一つ難点があるとしたら、食事処に入れないことだ。うっかり自分の状況を忘れ、蕎麦屋の暖簾をくぐってしまった。「いらっしゃいませ」と声をかけられ、慌てて店を飛び出した。

 仕方がないので、コンビニエンスストアで弁当を買い、外のベンチで食べることにした。これなら無言の買い物も不自然ではない。

 食事を終え、空の容器を片付けていると、
「いい天気ですね」
 という声がした。顔を上げると、こちらに向かってニコニコ笑いかける男性と目が合った。

「しかし寒いですね。風は強くないけれど、空気が冷たい。おかげで昨夜は、星がよく見えましたけどね」

 そう言って男性が笑った。あたりを見回したが、他には誰もいない。どうやら話しかけている相手は私で間違いないようだった。

 私は曖昧に頷いた。男性は私と同じくらいか、それよりもう少し年上のようだった。清潔な身なりをしており、折り目の入ったスラックスを履いている。薄手のジャンパーと蛍光色のキャップに、『桜が丘クラブ』というロゴが入っていた。地域のボランティア団体の名前だ。

「好きなんですよ、星が。あとはカラオケくらいでね。人に自慢できる趣味がないんです」
 そう言って、男性はまた笑う。私もかすかに笑い顔を作り、頷いて見せる。

「お近くにお住まいですか」

 そう尋ねられ、内心ひどく慌てた。急いでいるふりをして、もっと早く立ち去ってしまえばよかったのだ。ぼんやりと座っていたせいで、タイミングを逸してしまった。

 男性は私の無言を別の意味に解釈したようで、

「いや、失礼しました。僕は桜が丘クラブというボランティア団体に入っているんです。あそこに見える花壇なんかも、われわれが手入れしているんですよ」

 釣られて男性の指す方に目をやったが、花を愛でる余裕はなかった。この場をどう収めようか、必死に考えを巡らせる。

「この年になるとね、残りの人生でなにか有意義なことをしたいと思うんですよね。若い頃はボランティアみたいなのは嫌いだったんですけど、やってみると意外と楽しいんですよ」
 そこで男性は言葉を切った。苦笑いを浮かべ、頭を下げる。

「すみません。ご迷惑でしたね」
「いいえ」
 口をついて言葉が出た。慌てて立ち上がる。男性は自分の手をゆっくり動かしながら、

「いや、申し訳ない。僕の悪い癖ですよ。すみませんね、お邪魔してしまって」
 と言って頭を下げた。

「すみません」

 こちらも頭を下げる。顔が上げられなかった。男性の足音が遠ざかる。

 これで、今日話せるのは残り一回だけになってしまった。

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