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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.75 第八章


 言葉に決して出さない愛は時に、口にする愛よりも深く美しい色で花を咲かせることがある。

 カケルは、自分の思いは刈り取って水槽の中へ沈め、その部屋に鍵をかけた、と思っていた。鍵は、無造作に草むらに捨ててしまった。もう、開けることはないだろう。けれど、カケルの目にしないところで、水中の草は花をつけ、ゆっくりとその花びらを広げていった。花を浸した水槽からは、ほのかに甘い香りが漂って、それは様々な形で、それぞれの有り様にかすかに作用した。


 カケルは再び、自分の作品について考え始めた。

 美晴に、一たん背を向けたように思ったけれど、実は逆で、心は寄り添っているように感じた。彼女が、自分の作ったものを見たときの涙が、彼をとらえて離さなかった。映像を見せた次の日、美晴がカケルに言った言葉も、彼の背中を押した。そのとき、二人は店の窓をふいていた。三日ほど前に降った雨で、窓には砂ぼこりの縞模様ができていた。客が去って閉店したあとの、日曜の夕方だった。

 私があの映画を観てあんなに泣いてしまったのは。そこで、彼女は窓をふく手を止めた。次の言葉を、勇気を持って伝えよう、としている。
「レンズを通してカケルさんの愛を感じたからよ」
 その愛、という言葉は、昨日自分の中で葬ってしまった愛とは全く違った響きをもって、彼女の口から告げられた。

「圭への愛情があふれていた。そういう人にしか、撮れない映像よ」
 そう言ってうつむくと、美晴は、なでるように優しく窓をふいた。
「見てみたいな。また、カケルさんの作ったもの」

 カケルは、すぐに返す言葉が見つからず、美晴のうつむいた横顔を見つめた。美晴は、そのまま窓ふきを再開すると、さっさと終わらせて、ぞうきんを洗いに裏口へ出て行った。美晴の言葉は、じんわりとした余韻をカケルの中に残していった。
 自分の作ったものを見たい、と言ってくれる人がいる。それは、目の前にいるたった一人なのだけれど、その後ろには、何人もの人がいるかもしれない。忘れかけていた初心を思い起させられるような気がした。

 美晴は、何か前より、生き生きしているように見えた。

今度もまた、パン教室に行く、と言っている。さらに、ウッドデッキを店に利用できないか、と言い出す。
「簡単なテーブルとチェアを置くの。お弁当を買ってもらって、そこで食べてもらってもいいし、セルフでランチを持ってってもらってもいいかなぁ、なんて」
 夕食時の食卓について、庭を見ながら、ふふ、と笑う。
「カケルさんが直してくれたしね」
 それから、腕を組んで椅子の背もたれにもたれる。
「でも、庭をもう少し手入れした方がいいかなぁ」
 そして、いたずらっぽい目でこちらを見た。
「おれ⁉」
 つかみかけた唐揚げを思わず落としそうになる。
「勘弁してくれよ。デッキの修理の次は庭かよー」
 くすくす笑いながら、美晴は手を振る。
「いいですよ、庭は私の趣味ですから。ただ、高い木の伐採はお願いしたいなー」
「丸坊主にしてやる」
「うそ」
「当分、生えてこないように」
「やだぁ」
 そんな会話を、圭がにやにやしながら聞いている。

 圭は、何か自信を持って、学校へ行き始めた。

 月曜日の朝。行ってきます、と言って、カケルと美晴を振り返ったときのまなざしは、ちょっと忘れられない。その日、何となく登校する時の顔を見届けたくて、カケルと美晴はどちらから言うともなく、石段の所で並んで圭を見送った。それまで不安気に泳いで、ろくに合わせられなかった目と違って、何か確かなものを見すえるような目で、圭は、二人を見つめた。

 周りの緑はさわさわとゆれていて、圭は、どこに視線を合わせるともなく、その気配を楽しむように道路へ出て行った。

「元気に行ったね」
 美晴は、ランドセルを背負った背中が小さくなって、見えなくなるまで、石段の所にいた。まるで、船出してしまった船を見送るかのように。カケルも、同じように彼の後ろ姿を見つめていた。

 窓ふきをしたあと―――。
 カケルは、ふと昨日の日曜の夕方を思う。しぼったぞうきんを片手に、ベランダの洗濯物を取り込みに行った。洗濯物の取り込みは、カケルの仕事だ。部屋のふすまに手をかけて、ふと開けるのをやめた。美晴の話す声がする。

「この図鑑はね、圭のお父さんが、私にくれたものなんだ。たったひとつのプレゼント」
「えっ」
 小さく、驚きの声が聞こえる。
「植物を研究する人だったの。あなたのお父さん」

 歌うようにゆったり言う美晴の声は、夏の夕暮れのように明るかった。それに続く、圭の沈黙。彼は、どんな顔をしているだろうか。

「優しくて、真面目で」

 黙ってその場を離れようとした。少しの沈黙のあと、圭のかすれた声がした。

「……どうして、優しくて、真面目な人が、今はいないの」

 はっきりとではないが、少し責めるような色が、そのぼくとつな声にひそんでいた。それがカケルをその場にとどまらせた。
 好奇心から盗み聞きをしたかったというわけではない。これから聞かされる事実に少々ショックを受けるかもしれない彼を、それをひとりで受け止めなければならない圭を、ふすまのこちら側から応援してやりたいような気持ちだったのだ。

「家庭がある人だったの」

 驚くほどあっさりと、きっぱりと、その言葉は美晴の口から出た。
「奥さんと子どもがいる人、だったの」

 長い沈黙のあと、再び美晴の声がした。

「ひとりの男の人に、家族が、二つ。は、無理だから、彼は、奥さんとその子どものところへ帰ったの。でも、彼は素晴らしい宝物を、私にくれた。それが、圭、あなたなの」

「お母さん、その人のこと、好き、だった?」

「うん。とっても」

 痛みが全くなかったか、と言うと、うそになる。最後に聞いた美晴の言葉から漂う幸福感と甘さは、カケルの胸をしめつけた。けれど、それは深呼吸と共にほどけ、散らばり、空気に溶けていった。カケルはひとり、足音を立てないように階段を下りていった。階段を下りながら、鼓動が静まっていく。そして別の、温かさのようなものが、じんわりとやってくる。この感じは何だろう。

 ふと、階段の下で振り返り、カケルは足を止める。
 圭は、知ったのだ。自分が、愛し合った二人の元に生まれたことを。そして、夏の夕日に照らされながら、その安堵感と幸福に包まれている。そのことが、なぜかカケルの心まで満たした。

 自分が守りたいと思ったのは、美晴だけじゃないんだ。圭のことも、また。
昨日の夕方の会話が、どことなく後ろめたく生きてきた圭を受け止め、背中を押した。前向きに、明るく。
 いつもより、ぴんとはられたランドセルの後ろ姿に、カケルはほのかな希望の光を見た。



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