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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.35 第六章 風花の章

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 美晴から直接電話があったのは、水曜日の夜遅くだった。彼女がバイト先に現れてから四日目のことだった。
「あの……」
 一呼吸おいてから、彼女は言った。
「しばらくそちらへ帰れなくなりました。母の調子が悪くて。公演も出られないかもしれません。間に合わない、では許されないと思うので……。役は、最初の配役通りマリさんにお願いして下さい」
 つとめて事務的な口調で告げられた内容に、カケルは面食らった。
「そんなこと急に言うなよ。しかも役のことまで勝手に決めんな」
 美晴は電話の向こうで黙っている。
「そんなに具合、悪いのか? お母さん」
 余命いくばくもない病気なのかもしれない。
「命に関わるとかではないんですけど……。精神的にちょっと。放っておくのが心配で。病院にも行っていないし」
 カケルはため息をついた。
「そっち家族がいるんだろ」
「そうですけど……」
 言葉にはできない、何か理由があるのだろう。
「とにかく、帰ってきてくれないと困る」
 カケルは、つとめて冷静に言った。
「あの役は、もうお前のものなんだから」
 返事を待たずに電話を切った。

 けれど、それから二日たっても三日たっても、美晴からは何の連絡もなかった。公演まで約三週間。このまま、彼女は本当に戻らないつもりなのだろうか。さすがのカケルも、焦ってきた。劇団員の仲間たちの間にも、焦りが見えてきた。役作りはほぼできているにしろ、練習も止まる。無事、本番を迎えることができるのだろうか。
 こちらから何度か連絡した。電話も出ないし、メールの返信もない。
「完全無視かよ」
 そんなやつだったっけ。あいつ。代役を頼まれたときの、上気した顔。自分を出すことをためらいながらも、本当は誰より自分を表現したいと思っている。それは、台本を見ているときの真剣な様子とか、一人で立ち姿をチェックしているときとか、対面していないそこここで目にしてきた姿だ。どこか広い地平に立っている、と彼女は言った。演技を重ねるごとに、彼女の少し茶を帯びた瞳は透明感を増し、小さな体は軽くなって発光していくように見えた。

 誰より、生き生きしてたのに。そんなにあっさり、手放していいのかよ。
 もう一度、かけてみようか。ベンチに座って、手元の携帯をいじっていると、視界に何かがすっと差し出された。白くて美しい手。缶コーヒーが握られている。マリだった。
「由莉奈さんが連絡くれて」
 少しだけばつが悪そうに立っている。
「ピンチなんだって?」
 カケルは、かがめていた背を伸ばし、黙って缶コーヒーを受け取った。温かい。二十センチほど間を開けて、マリが隣に座った。
「連絡、ないの?」
 うん、とカケルはうなずいた。うなずきながら、かつてないほどの居心地の悪さと、焦りと、計算なのか打算なのか分からない考えとが、頭の中をかけめぐった。プライドが許さない、という思いとは裏腹に、カケルは気がつくと言っていた。
「こんなこと、お前に頼むのも何だけど。やってくれないかな。もう一度」
 マリが、えっ、と体をのけぞらせ、二人の間が若干広がったのが分かった。
 答えは、聞かなくても分かっていた。口にした途端、カケルは自分の男としてのプライドも、演劇人としてのプライドも、すべてがなしくずし的に崩れていくのを感じた。
「それ、私に頼むこと?」
 半ばあっけにとられているマリの顔をまともに見れず、カケルはベンチに深く沈みこみ目を閉じた。
「今のなし。聞かなかったことにして」
 しばらくして、マリがふふっと笑った。危うく、本当にベンチからずり落ちるところだった。
「笑うとこかよ」
 思わず突っ込んでいた。突っ込んだら、今までの会話がうそのように気が楽になった。
「聞かなかったことにして、なんて、相当弱ってるね」
「あぁ、弱ってる」
 正直、どうしたらいいのか分からない。それで、ついマリに甘えてしまったのだ。
「もしかしたら、今ならできるかもしれない」
 信じがたい言葉が返ってきた。カケルは、ゆっくりとマリの横顔を見た。
「できない、って言ったとき、あのときは、まだカケルのことがすごく好きだった。手に入らないカケルを見ているのも、会うのもつらかった。でも、今ならできそうな気がする」
 マリは、少しまぶしそうにこちらを見た。
「一度、知ってしまったら、もう元には戻れないんだなぁ、って。同じように、好きではいられないんだなぁ、って思ったの。最初は、ショックでくやしくて、好き、っていう気持ちに無理やりしがみついていたけど、ゆるやかに、手が放れていった。私、自然にあきらめていったんだと思う。どうにもならないことって、やっぱりあるんだ、って」
 マリの髪が、風にぱらぱらとこぼれる。
「今は好きだった人になったの。だから」
 カケルは、美しいマリの横顔を見つめた。すれ違ってしまったんだ。そう言おうとした。けれど、きちんと考え抜かれて答えを出したマリの前では、そんな言葉もただの言い訳に聞こえてしまうだろう。本当は、好きになりかけていたのだ、とも言おうとした。しかし、真剣に自分を好きでいてくれた人に向かって、好きになりかけていた、なんて、何と弱々しくて力のない言葉だろう。
「でも」
 マリは、真っすぐにこちらを見た。
「もう一度聞くけど、それ、私に頼むこと?」
 真一文字に結ばれた口は、先ほどのリラックスした雰囲気とうって変わって、かすかな怒りをためていた。見開かれた目は、カケルを一瞬も見逃すまいとして、まばたきもしない。やがて、まばたきを忘れた目は、少し赤く涙がにじんできた。

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