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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.68 第七章


「あ~っ」

 急に、カケルさんが声をあげた。何かが焦げた匂いが鼻をついた。カケルさんは、バーベキューセットの上にかがみこんだ。そして、トングで、真っ黒になったピーマンを持ち上げると、しくじったな、と言って少し笑った。それから、黙って体の向きを変えると、バーベキューの片付けに取りかかった。圭も、のろのろと隣に並んで座った。

たくさん泣いた後の頭には、重たい霧がかかっている。さっきまでの感情の荒波は、どこへ行ってしまったんだろう。あれは、本当に、ぼくだったんだろうか。

ふと、カケルさんが、片付けながら口を開いた。

「おれも、お父さんがいなかった」

 全く、思いがけない言葉だった。

「えっ? 本当?」
 圭は、カケルさんの横顔をのぞきこんだ。
「六歳ごろから、だけど。女つくって、出て行ったんだ」

 圭は、固唾をのんで次の言葉を待った。待ったけれど、カケルさんはそれ以上、何か自分から話す感じでもなかった。
「そのあと、どうしたの? いじめられたりしなかった?」
 うずうずした気持ちで、圭が聞くと、カケルさんはちょっと笑って答えた。
「どうしたもこうしたも、母親と二人で慎ましく暮らして、大人になりました。いじめられは、してないなぁ。おれは、ほら、よく誰かにつっかかったり、むしろいじめたりしていたからな。男の子にも女の子にも」

 圭は、まじまじとカケルさんの顔を見た。
 やっぱり、違う。ぼくとカケルさんでは、同じお父さんがいないのでも、全然違う。
「でも」
 カケルさんは、バーベキューセットを袋にしまいながら言った。
「弱かったんだろうな。本当は」
 え、と聞き返すと、カケルさんは続けた。
「自分が本当は弱いこととか、一人になるのが怖いだとか、ばれたくなくて、いじわるしたり、つっかかったりしたんだろうな」
 それから、こう言った。
「あんまり、周りにつっかかってばかりいたから、ある日、職員室に呼び出された」
「えっ?」
 圭は、目を丸くして、カケルさんの顔を見上げた。
「確か四年生のときだったかな。あ~また説教されんだな、うぜー、と思ってたら、担任の男の先生が、おれの目の前でラムネ飲みながら言ったんだ。知ってるか。犬がほえるのは、怖がっているからだ、って」
 圭は、黙ってカケルさんの話を聞いていた。
「怖がっているのを知られたくないから、ほえる。自分の弱さを知られたくないから、先に手を出す。やられる前に、やる」
 カケルさんは、鼻をすん、とすすった。
「内心、どきっとしたね。見破られた、っていうのかな」

 カケルさんは、ペットボトルにくんであった海水を炭の上にかけた。炭は、じゅっ、と音を立てた。最後の炎が消えた。辺りに、ほのかな煙とこげくさい匂いが漂った。

「先生は、飲むか? と言っておれにもラムネをくれた。ビー玉ひっかけて飲むやつ、な」
 それなら、知ってる。初めて飲んだときは、うまくビー玉がひっかからなくてなんて飲みにくいんだろう、と思った。

「先生は、すっきりしたか? と言ってから、ひっかかることがあったら、このビー玉みたいに、一度のどの奥で止めてみろ、って言ったんだ。単に、がまんしろって言っているわけじゃない。コントロールしてみろ、ってことだ。一度、ビー玉を止めてみたら、別の通り道からラムネが流れ込んできて、気分がすっとすることだって、ある。別の気持ちや考えが流れ込んでくることが、ある」
 もし、がまんできないくらいどうしても頭にくることがあったら? むっとして言い返したら、今度は笑って言った。おれのところに来い。ラムネの空きびん用意して待っててやるから。そう言って、先生は、思いっきりラムネのびんを床に叩きつける真似をして、にっと笑ったんだ。

 カケルさんはそう言うと、ちらっと圭の方を見て、口のはしを上げてちょっと笑った。

「変わった先生だったな」
 そして、前の何もない闇を見つめた。

「でも、そう言ってくれる大人がいたから」

 カケルさんは、そこで言葉を区切った。そして、ちょっと口をひきしめてから、ぽつりと続けた。

「おれは、人をいじめなくなった」

 夜の波音が静かに響く。圭は、黙ってカケルさんの横顔を見つめた。

「お前も、あんまり一人で抱え込むなよ」
 笑いを含んだような、やわらかい調子の声だった。

「先生でもない、親でもない。おれは、お前にとっての適当な大人でいる。だから、胸に何かたまったり悩んだりしたら、いつでも来い。一緒にどこかへ行ったり話を聞くぐらいならできるから」
「適当……」
 大切にされているのか、そうでないのか、その微妙な言葉に少々とまどいながら、圭はカケルさんを見つめた。
「悪い意味で言ったんじゃないぞ。適当ってのは……そうだなぁ。適度に、当たりっていうか……うーん、つまり、ちょうどいい、ってことだ」
「ちょうどいい……」

 ますます頭を抱えるカケルさんは、まるで解けないパズルを前にしている子どもみたいで、おかしい。圭は、思わず笑ってしまった。

「何となく、分かったよ。適当な大人。それは、きっと、ぼくにとってちょうどいい位置にいる大人ってことだね」

 そう言ったら、もだえ苦しんでいたカケルさんの動きは、はた、と止まった。
「そう、それだ。お前にとって、ちょうどいい位置にいる大人」

 そう繰り返してから、今度は、悔しいー、と叫んだので、圭は声を上げて笑ってしまった。


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