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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.27 第四章


 それから十五年。すっかり変わってしまった自分と、すぐ隣に寝泊まりしているあまり変わらない彼。

 運命って、不思議だなぁ、と思う。
 永遠の少女、か。もしも、そんな自分のまま、この状況になっていたら、もっとどきどきしたんだろうか。何かを期待したんだろうか。離れに、住みます? と、さらりと言えたのは、何もなかった過去から、これからも何もない、という自信があったからだろう。

 そんなことを考えながら、二階の引き出しから通帳を出してカバンに入れ、玄関に鍵をかけると、自転車を引き出す。駅前の郵便局まで。これは、毎月の決まり事になっている。ちょっとこいだだけで、汗がふき出る。タオルでふきふき、駅前のATMに並ぶ。数人が並んでいる。通帳記入をする。今月も、ちゃんと振り込まれている。秀幸さん。離れたところで、今日もあなたは生きている。そう、確かめるように通帳の数字を見つめ、カバンに入れる。

 自転車のペダルを強くこぎながら、ふと思う。あの日、階段の下に突然姿を現したのが、カケルではなく、秀幸さんだったら。

 きみの彼氏や、だんなさんになるひとは、幸せだね。

 そう言って、優しく笑った秀幸さん。そんな未来は、なかったよ。私には、なかったよ。できたら、あなたとそうなりたかったよ、秀幸さん。あなたは、私の中に、小さなひと粒の種を残して行ってしまった。捨てようと思ったけど、できなかったよ。あなたが、家族を捨てられなかったように。

 風が目にしみて、こぼれるはずのなかった思いがひと粒、涙となって流れていった。

 悲しみで、胸がいっぱい。

 そのまま、キッチンに立つつもりだった。こんな時は、無心に手を動かすのが何よりだから。

 帰りついて、自転車を家の壁際に止める。表に回り、玄関の取っ手に手をかけた美晴の耳に、何かが届いた。音楽。離れの方から漏れてくる。一歩、二歩、と、吸い寄せられるように近づいた。そっと、引き戸に手をかける。

 ガラス戸を開けると、厚くて豊かなオーケストラの音が、美晴の身を包み込んだ。そのまま、部屋の中へ入っていった。窓の向こうの緑が影を落とし、部屋全体が、ほの暗い緑に包まれている。弦の響きは、波となって、美晴の心にさざ波を立て、揺さぶった。哀しいメロディの中に何度も起こるざわめき。音の波が、激しく躍動して変化をとげたとき、美晴の中の何かがはじけた。知らないうちに、涙があふれ出していた。あふれた涙は、ほおを伝って、畳の上に、ひと粒、ふた粒、したたり落ちた。

 そのまま、いつまでも聴いていたかった。その楽章が終わったとき、やっと、美晴は木の机の向こうに仰向けに寝転んでいるカケルに、気づいた。彼は、腕を頭の後ろに組んで、目をつむって音楽を聴いていた。
 彼は、ゆっくり目を開けて天井を見てから、美晴の方へと視線を移した。目が合った。その目は、黒くてかすかに濡れているように見えた。

「あ……」
 現状に立ち返り、慌ててまばたきをして、涙をふいた。
「勝手に入って、ごめんなさい」

 カケルが、身を起こすのとほぼ同時に、美晴はきびすを返して離れをあとにした。

 あふれないように、ここまでこらえてきたのに。人前では、圭の前でも、泣かないようにしてきたのに。

 急ぎ足でキッチンに入る。かがんで冷蔵庫の野菜室を開けて中を探る。確かあったはずのなすとズッキーニを取り出す。無心に刻んだ。

 カケルは、そのあと夜遅くまで、姿を現さなかった。


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