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ペニー・レイン Vol.3

 気づくと、演奏は終わっていた。男の子は、サックスのつばをぬく穴を開けて、ふっふっ、と二回強く息を吐くと、黙々とサックスをケースにしまい始めた。彼はケースを持って土手を去ろうとする。
「あ、あの」
 何を言うつもりだったのかわからないけど、言葉が出ていた。彼は、黙って振り向いた。端正な顔立ちに、静かな青い目がまっすぐぼくを見つめた。
「何」
 と、彼は短く言った。
「い、いえ。あの、とっても上手だったよ」
 緊張して、それだけ言うのがいっぱいいっぱいだった。彼は少し間を置いてから、また
「ありがとう」
 と、短く言った。最後に、口の端でちょっとだけ笑った気がする。
それから数日間は、ぼくは魂を抜かれたようにぼうっとしていた。完ペキに、あの彼の音にヤラレタのだ。
授業を聞いていても、ママの店にいたらなおさら、あのサックスの音が突然流れ出す。いったん、流れ出すと、回りつづけるレコードのように止まらない。ぼくとキムと彼が、ステージに立っている場面まで浮かんでくるのだ。その絵は、耳の奥で回るレコードと一緒に、白黒映画のフィルムのようにくるくるとぼくの頭の上で回った。
「ッキー。ディッキー・アンダーソン!」
「はいっ」
 突然の先生の雷に、ぼくは飛びあがった。
「今の答えは」
 耳が熱くなるのがわかる。後ろから、ジミーのひそひそ声がする。
「三十五人」
「三十五人」
 ぼくはそのまま答えた。
「ほう、そんなに少なかったのかね。で」
「え」
 ぼくは慌てた。
「ひゃ、百二十人……」
 こわごわ答えると、先生の目はみるみるつりあがった。
「バカもん! 何を聞いていた! クレタ文明を滅ぼしたのは何人か、と聞いたんだ。アカイア人だぞ。しっかりしろ」
 クラス中のくすくす笑いの中、ぼくは肩を落として席に座った。
 学校の帰り道、ついにぼくはキムにその心の内を吐いた。
「あの日から、あの音がずっと耳から離れないんだ」
 キムは、突然の言葉に一瞬きょとん、としたが、「サックスの音が」とぼくが付け加えると、驚いたことにこう言った。
「おれなんて、夢に出てきたぜ」
「ほんとに?」
 キムもあの日のサックスの少年が心に残っていたのだ。 
 ぼくは、空を仰いで言った。
「ねえ、会えないかなぁ、もう一回彼に」
 それから、ぼくらは毎日、あの土手を通って帰った。しかし、何日待っても彼は姿を見せなかった。そろそろしびれを切らしたある日、ついにキムが言った。
「よっしゃ。探しに行こうぜ!」
 ぼくらは、近場のパブリック・スクールから回る計画を立てた。
 その学校は、ぼくらの町の一番外れにあった。これまで二つの学校を回ったけど、制服を見た瞬間、違うと分かり、やっと探した三つめだった。立派な鉄の門の向こうに、彼があの日着ていた制服の生徒たちが見える。
「やっと探し出したね」
ぼくがため息をもらすと、キムが言った。
「この中から、アイツを探し出すんだぜ。……気分は探偵だな」
 キムは、鉄のさくにぴったり体をひっつけて、じっと校内を見つめている。本物の探偵みたいな真剣な目つきだ。ぼくは、できるだけ神妙に、こっくりとうなずいた。
 放課後の男子生徒たちは、フットボールに興じたり、だらだらとつるんでしゃべっている。とても遠目から彼を探し出すのは難しそうだ。しかも、全員がこの庭にいるとは限らないのだ。何しろ、彼の名前も学年も知らない。どうやらこれは途方もないことなのかもしれない。ふと、後ろで呼ぶ声がする。
「おい、チビくろ!」
 ぼくらは、それが自分たちを差す言葉だとは気づかず、手すりの間からなおも「彼」の姿を探しつづけた。
「お前らだ、チビくろ!」
 振り向くと、いかにもタチの悪そうな三人組が立っていた。真中の少年は、太っていて、体格もよく、そばかすだらけの赤ら顔。いかにもボスって感じだ。もう一人はやせてちょっと出っ歯で、制服のすそがだらりとスボンから出ている。あとの一人は、牛乳のビン底みたいな分厚いメガネをかけていて、おせじにも強そうには見えなかった。立ちはだかる三人を前に、ぼくとキムは一瞬呆然としたが、すぐにやばい、と思った。やばい。退屈なおぼっちゃまたちのイジメのえじきになってしまう。真中のボスが、一歩にじりよって言った。
「こんなとこで何してんだ」
ぼくは、できるだけ申し訳なさそうに、もごもご言った。
「あの、友達を探しに来たんです」
「友達?」
 ボスは、まゆげをきゅっとあげてぼくをにらむ。正直、こわい。キムが、ここぞとばかりに言う。
「そう。サックスを吹く友達。知らない?」
ボスは首をかしげた。
「サックス? 何のことだ。知らねえな」
 出っ歯がボスにささやく。
「あの長いラッパのことっスよ」
「ばかやろう、そんなこたぁわかってる」
 ボスは出っ歯をはたいた。今度はメガネがひそひそつぶやく。
「……ひょっとしてエドワードのことかな」
 ボスがメガネに聞き返した。
「だれだ、それ?」
「知らないかもしれないけど……」
 けど? 続きは? メガネがそこまで言ったとき、ボスがぼくらに向き直って言った。
「とにかくこんなとこうろちょろすんじゃねえよ。目障りなんだよ。Chink(中国人)!」
 Chinkって言葉が発せられたとき、ひやっとした空気がぼくらの間に流れた。それは、言ってはいけない。隣でキムの体温が上がるのが分かった。
「なんだって? もう一回言ってみろ。バカにしやがって。それにオレは中国人じゃないやい。見分けもつかないのにそんな言葉吐くんじゃねえよ!」
 キムは、そこまで一気にまくしたてると、果敢にもボスをばしっと押した。ボスはちょっとよろついただけだが、怒らせるには十分の反撃だった。
「このやろ――っ」
 だめだ、やられる! とっさにぼくは、大声で叫んでいた。
「アア―――ッ」
 ぼくの金切り声に驚いて、やつらの動きは止まった。ぼくは、キムの腕をつかむと、その場からもがくように走り去った。
 学校の裏の庭らしきところまで一気に走って、ぼくとキムは、はぁはぁと息をついた。キムが、ぜえぜえ言いながら、くそっ、と金網を叩いた。
 くそっ、くそっ。
 何度も金網を叩くキムの目から、ぽた、ぽたと、涙がこぼれ落ちた。
 驚いた。キムがこんな風に泣くところを初めて見た。キムは、近所の子どもたちの中で一番強かった。けんかではめったに負けなかったし、負けたとしてもくやし涙を目ににじませるぐらいだった。そんなキムが、目から次々と涙を落として泣いている。
 キムはくやしかったのだ。やつらに言われたことも、思いっきりやりかえせなかったことも。そして同じぐらい悲しかったのだと思う。ただでさえ気を張って生きているのに、やつらの言ったひとことでそれは簡単に傷つけられる。キムに一発、殴らせてやればよかった。ぼくは、死ぬほど後悔した。
「……キム」
 かける言葉が見つからず、ぼくはただ、そこに立ち尽くしていた。

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