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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.26 第四章


 昔、つき合っていたんですか?

 引っ越しの夜、カフェのテーブルの上に少し身を乗り出して、奈美ちゃんがささやいた。
 まさか。
 美晴は、あわてないようにわざとゆっくり言った。
 何も。何もなかったのよ。

 奈美ちゃんは、なぁんだ、と言いながら、椅子にもたれかかった。圭は、美晴と奈美ちゃんを代わる代わる見ている。それから、ウッドデッキで谷崎と一緒に涼んでいるカケルに目をやる。

「でも、昔、一緒に舞台やっていたんですよね」

 奈美ちゃんも、カケルの方をちらっと見た。

「やっていた、っていうほどじゃ」

 少し間をおいて、レモネードのコップを洗いながら続けた。
「ただ一回、共演しただけ」
 すると、奈美ちゃんは、両手でほおづえをついてうきうきした様子で言った。

「どんな役、やったんですか?」

 美晴は、ごまかすように軽く笑って首をかしげた。

「どんなだったかな。もう、忘れちゃった」

「うそー!」

 奈美ちゃんは、声を上げてから、少し真顔になった。

「だって、あのカケルさんと共演したんでしょ? 忘れるはず、ない、と思いますけど」

「……どういう意味?」

 美晴が聞き返すと、奈美ちゃんはほおづえを片方外して、少し考えを巡らすように天井を見た。

「何ていうか……カケルさんに、真正面から見られると、誰でもちょっと、どきっとするんだろうな、って思います」

 グラスをふく手が、止まる。

「人を見る目線っていうか……。人の、なんか、こう、普段しまってあるところを引き出されてしまう感じがするな、って」
 美晴は、黙ってグラスを並べた。奈美ちゃんは続ける。
「でも、それは決して単なる好奇心とかじゃなくって、静かな包容力、のような」

 そこまで言うと、奈美ちゃんは、急にいたずらっぽい表情になった。

「あ、ちょっと良く言い過ぎたかな。でも、この人の前だったら、出してみてもいいかな、と思えるようなものです。一緒に仕事をしていて、俳優さんがそういう演技をされることがあって、そういうときは、私も見ていて、あ、この俳優さん、今、出したな、って。出てるなぁ、って、はっとします。何でしょうね。あれは。カケルさんは、見事に引き出したんだなぁ、と思います。そういうところにひかれて、みんなまたカケルさんとやりたいな、って思うんじゃないでしょうか」

 そう言ってから、また、奈美ちゃんは、きらっとした目で美晴を見た。

「きっと、ひと言では言えないような役をやられたんですね。人に言うのも、もったいないような」

 この世とあの世のあわいに立つ、バラ売りの少女。相手役のサラリーマンの男が、カケルだった。
 部内の人間関係でいろいろあって、突然回って来たその役を、どんな気持ちで引き受けたのか、記憶はあいまいだ。ただ、そのあと美晴はいくつか役をこなしたが、その時の少女役ほどに、入り込んでしまった役は、なかった。

 カケルの後に部長になった徹ちゃんは、やや凡庸になってしまった美晴を前に、こうこぼした。

「どうも、永遠の少女、っていうイメージなんだよね」

 そのあと、こう言った。

「ぼくには、カケルさんほど君の新たな魅力を引き出す力がないんだ」

 カケルよりずっと人当たりのいい徹ちゃんをがっかりさせてしまったような、またカケルとの舞台が、やっぱり自分だけでなく他のだれにとっても、ちょっと特別だったような気恥ずかしさを覚えて、美晴はうつむいた。

 カケルにとって、最後になった舞台。その舞台を終えてしばらく経った頃、キャンパスから突然、姿を消してしまったカケル。

 休学してるんだって。

 副部長の由莉奈から、そう聞いた。

 美晴が二年生になった頃、遠くから彼の姿を見かけたことがある。事務棟から出て来た彼は、厳しく気づまりな表情を浮かべていた。わざわざ近寄って話しかける勇気がなくて、見送った。

 カケルさん、大学辞めちゃったんだって。あと一年だったのにね。


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