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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.26第五章 波の章

五、波の章

 タラップを降り立って、最初に思ったのが、カケルに会いたい、だった。会いたい。今すぐ会いたい。まだ機内の空気から解放されきってない、今のこの状態の自分で。
家に帰り着くと、時差ボケでぼんやりした頭と体をベッドに横たえた。
たった二週間しか時が経っていないのに、マリには家も近所も何だかまるで違って見えた。充分に広い自分の家も、小さく狭く思えた。見慣れているはずのものが、新しく目に映る。直に目は慣れて、自分の周りにあるものすべてが愛おしくてたまらないような、何とも言えない気持ちで眠りについた。

 次の日は、早くカケルに会いたくて、部活の時間まで待てなかった。ふとした思いつきで、経済学部の構内まで行ってみる。自分のいる文学部より男子学生が多く、華やかさに少し欠ける。何人かの学生が、教室を出てきてすれ違いざまにマリに視線を送る。軽くすり抜けるような足取りで、ちらっと教室をのぞいて回った。カケルの姿はなかなか見つからない。あきらめて、やっぱりメールしようかな、と構内を出たところで、植え込みの少し向こうに、ベンチに座っているカケルを見つけた。

 弾むような足取りで駆け寄って行こうとして、ふと足を止める。隣に女の子が座っていた。何度か、カケルとグループで一緒にいるところを見たことがある、確か同じ経済学部の人。何となく近寄りがたい雰囲気だ。少しの間、見守ったが、会話がとぎれているので、一歩踏み出そうとした。遠慮することはない。自分は、カケルのれっきとした彼女なんだから。ところが、女の子から発せられた次の言葉に耳を疑った。
「だから、もう会わない方がいいと思って」

 これは。これは、決定的な別れの場面だ。友達関係ではなく、男女の。マリは、何を、どう解釈してよいのか分からず、その場に立ち尽くした。頭の中まで、完全に思考回路がストップしている。

 待って、待って。落ち着いて。一つ深呼吸をして、自分に語りかけた。あの女の子は、もう、会わない方がいい、と言っている。ということは、今までは会っていた訳であって。自分の知らないところで。いつ? どこで? 知る限り、カケルはバイトで忙しそうだったし、昼間や夜、デートだってよくしていた。と思う。じゃあ、その間をぬって? 立ち尽くして硬直していた体が、深呼吸によって少しずつほぐれると同時に、おなかの底からめらめらと燃え上がる感情が沸き上がってきた。けれど、その場に切り込んでいく勇気もなく、ただ成り行きを見守っているしかできない。
「このまま続けたら、私、だめになると思う」
 カケルは、黙って手にしていた缶コーヒーを飲んだ。それから、言った。
「お前がそう言うなら」
 女の子は、立ち上がって、少しだけカケルの方を向くと、じゃ、と言って、少しためらいつつもその場から立ち去った。カケルも、ゆっくり立ち上がり、缶をゴミ箱に投げ捨てると、別の方向へ去って行った。

 本当は、部活に顔を出そうかどうしようか、直前まで迷った。けれど、行かないと、自分があっさり負けを認めてしまうようで、それも悔しかった。カケル一人と会うわけじゃないんだし、と弱気になりそうな自分を励ました。
「おかえりー! どうだった? マリちゃん」
 緊張をくつがえすように、やっぱり由莉奈はいつも通り迎えてくれ、部活の仲間は、マリのアメリカ土産のチョコレートにわいわいと群がった。カケルはまだ来ていない。少し、ほっとする自分がいた。
「おかえり」
と声がした。扉のところにカケルがいた。マリは、笑顔を作ろうとしたが、それは変にこわばったものになってしまい、そうしているうちに、カケルはマリをすりぬけて部室内へ入ってしまった。
「お、おれにも一つくれよ」
 軽く会話を交わす声が聞こえる。いつもは、くっきり聞こえる彼の声が、ぼんやりノイズがかかったように聞こえた。

 大きく波が迫ってくる。今日は、風が強い。いい波が来ている。三々五々、波とたわむれているサーファーたちを見つめながら、マリは浜辺に座り込んだ。結局、何も聞けず二人で話す機会も持たないまま、逃げるように部室から帰ってきてしまった。
 弱虫。マリは、足元の小石をもてあそんでから、捨てる。思えば、自分はカケルの何を知っているというのだろう。今までどんな子とつき合ってたんだろう? 確か、家族はお母さんだけって聞いたけど、どこで生まれ育ったんだろう。彼の背景にある風景は。彼は、あんまり自分の話をしなかった。会うときは、楽しい場所に行きたくて、おしゃれなムードに浸りたくて、いつも外だった。彼も自分をアパートに誘ったことはないし、自分も行きたいと言わなかった。でも、それは――。

 マリは、今日見てしまった同じ学部の女の子のことを考えた。あの子は、カケルのアパートに行っていたのだろう。それは、証拠がないというのに、ほぼ確信となってマリの胸を突いた。苦しかった。それ以上、二人について想像するのが怖かった。波頭が大きく崩れ、いつもより大きな波の音が、マリの耳に届く。たたみかけるように次の波の音。いくつもいくつも重なって、マリの心を揺さぶってくる。このざわめきをかき消したくて、マリはきびすを返して海をあとにした。

 今まで好ましきものとしてしか、目に映っていなかったカケル。時々、はっとさせられるその顔立ち、低くて落ち着いた声、風に吹かれたときの髪のくせ。そして、すっとした背格好。それらが、みるみるうちに違って見えていくことに、マリは驚いた。色あせる、というのとは違う。それは何か不穏な色に染まっていく映画のフィルムのようだった。
 カケルを見つめる目が、不信だ、と気づいた。
 そして、そう気づいた自分自身にまた、傷ついた。
あぁ。もう、以前みたいに、ただただ大好きな人、という風に見られないのだ。
ふいに、顔をおおって泣きたい気分になる。それは、部活の練習中に話しかけられたり、休憩に入って、以前よりむしろ優しく飲み物を差し出してくれたり、そんな何気ない瞬間にマリを襲うのだった。彼は、何も知らず何も変わらないのだ。それがまた、マリを苦しめた。どうして聞けないのだろう。それは分かっている。聞くのが怖いのだ。彼がどんな反応をするのだろう。それが怖かった。たとえ終わったことであっても、もう一人の女の子の存在を追及したら、カケルは動揺するだろうか。それとも、全く悪びれずに、あっさり認めるだろうか。どちらに転んでも、マリの気持ちもカケルの気持ちも今までのようにいかないのだろう。
カケルの気持ち。ここでまた、マリの思考が止まる。カケルの気持ち、それがどんなものなのか、今まで言葉で聞いたことがあっただろうか。ふいに、足元の砂が崩れていくような感覚に襲われた。

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