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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.82 第八章

 カケルは、強くつかんだ手を放さずに、うつむいたまま言った。ひとつひとつの言葉を、しぼりだすように。
「もう少しだけ、いてくれないか」
 美晴は、前を向いたまま動かなかった。

「……はい」
 しばらくして、落ち着いた声で美晴が返事をした。カケルがスカートの手を放して黙って立ち上がると、彼女はトレーを机の上に置いた。
「少しの間だけでいい。肩を貸してほしい」
 かすれそうな声で、カケルは言った。

 彼女の顔は見なかった。彼女がゆっくり、こちらに向き直るのとほぼ同時に、カケルは彼女の両腕をつかんで、右肩に、自分の額を乗せた。美晴はよろめくことなく、カケルを受け止め、そのまま動かなかった。少したってからゆっくりと、彼女の手がカケルの肩に添えられた。温かくて、柔らかい手が。
 しばらく、そのまま二人でじっとしていた。十分もたっただろうか。もっと長かった気もするし、短かった気もする。
 カケルは、ゆっくり彼女の肩から額を外した。彼女が何か言う前に。カケルはうつむいたまま、言った。
「おれの顔を、見るな」
 それは、おれの心の傷を見るな、ということだった。たった今、漏らした弱さを忘れてくれ、ということだった。矛盾している、それは分かっている。けれど、とにかく、たった今、預けたはずのその肩に、すぐ去ってほしかった。

 見せてしまった。
 おれの弱さを。
 見せてしまった。
 おれの傷を。

 両肩を強くつかんでいた手は力が抜けて、すとん、と下に落ちた。
 すぐに、去ってくれると思っていた。察しのいい彼女なら。しかし、彼女はその場をはなれる気配がしなかった。少し、ためらうように指と指をスカートの前でからませて、静かに一歩、こちらへ歩み寄った。

 彼女の前髪が、そっと自分の前髪に触れ合って重なったとき、自分は何かを予感したのだろうか。

 ふと、顔をあげると、彼女のくちびるが自分のくちびるに触れた。少し、ためらいがちに軽く。そして、深く、やわらかく。
 それから、二人は黙ったまま、何度も何度もくちびるを重ねた。
 時おり、美晴のくちびるからもれるかすかなため息は、カケルの心と体を芯から震わせた。

体が熱く燃えている。
 このまま、心も体も溶けてしまいそうだ。
 美晴の薄い肩に腕を回す。美晴の柔らかな手は、カケルの頭から背中を優しくたどるように降りてきて、カケルの背中をそっと抱きしめた。
 このまま、ただひたすらくちびるを重ねていたい。
 少なくとも、その間だけは、孤独ではない。明けない夜を、願った。
 どれくらい、たったのだろう。外で、夜明けを告げるするどい鳥の鳴き声がした。それが合図のように、二人は、そっとくちびるを離した。
 夜が白みかけている。長い長いくちづけをしたのだ。
 まるで、追いつかなかった年月を埋めるかのように。その間にあった互いのできごとを、すべてつつみ隠さず話すかのように。
 眠たさに、頭の中もあいまいで、白みがかかっている。
「夜が、明けちゃったね」
 美晴は、ぽそっとつぶやくと、ほのかな光の中でゆっくり笑った。哀しい顔で。それから、もう、行かなくちゃ、と言ってすっと立ち上がると、そのまま音もなく出て行った。
 妖精みたいだ、昔も、そう思ったことがある。そう、まさに、初めてシェファーズ・パイを食べたあと。するりと部屋を抜け出て行った後ろ姿に、記憶が重なる。畳に寝ころがって投げ出された自分の手を、ぼんやり見つめる。かすかに、指先が震える。先ほどまで、触れていた柔らかな感触を、その手にたどる。

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