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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.3 第一章

 秀幸さんとは、勤めていた都内のクッキングスタジオで出会った。「男のための料理教室」。上司から企画を提案されて、美晴は少々面食らった。対人がやや苦手で、できたら料理に集中できる仕事の方が、得意だった。
 入社して二年目。女性や子ども相手に料理を教えるのに、ようやく慣れてきた頃だ。やっと緊張が楽しみに変わりかけてきてほっとしていたところに、男か。会社は容赦なく、次のステップを用意してくるものだ。美晴の頭には、イカついプロレスラーのような男や、話の全く通じなさそうな表情の乏しいオタクっぽい男たちの面々が浮かんできた。

 ふたを開けてみれば、実際はそんなことはなく、さすが料理をしてみたい、という男たちだけあって、軒並み、まぁ、草食系、女子会に混ざっても違和感のないタイプや、甘いマスクのスイーツ男子、その中にこだわりの強そうな寡黙な男性がちらほら、といった感じだった。プロレスラーやオタクだらけだったらどうしよう、と妄想していた美晴は、ほっと胸をなでおろした。「男のための料理教室」は、月一回の全四回という短期講座だった。基本の味噌汁とサラダに始まり、肉じゃが、煮魚、最後は圧力鍋を使った豚の角煮でしめられた。

秀幸さんは、十二人の生徒の内の一人だった。やせ型で背が高く、眼鏡をかけた秀幸さんは、寡黙で、最初は黙って一人であたふたしていた。真面目な性格らしく、ちょっと手順が分からなくなると、落ち着きなさそうに周りの人の手元を見たり、隣のテーブルを見たりしていた。

「何か、分からないこと、ありましたか?」

 そう声をかけると、小さな声で、小口切りって、何ですか、と礼儀正しく聞いてきた。緊張しながら包丁を握る指に、指輪が鈍く光っていた。

結婚してるんだな、と思った。そう思ってから、どうして結婚しているのに、ここに通っているんだろう、と思った。料理が趣味、という感じもしない。
 他の生徒さんは、全員独身っぽかった。


 仕事帰りに、偶然、秀幸さんに会ったのは、「男のための料理教室」が終わって半月ほど経ったころ、一番寒い季節、二月の初めだった。夜も九時を回っていた頃だった。仕事で余った食材をビニール袋に持ち帰りながら、歩道橋を渡った。あまりに寒いので、鼻歌など歌っていたと思う。歩道橋の上の、ちょうど真ん中あたりで、見覚えのある顔に出会った。

「あ」

 ほぼ同時に、声を出した。二人の息が、白くぽっと吐き出されて、空中に流れていったのを覚えている。秀幸さんだった。最も、その時は、笹野さん、と呼んでいたのだけど。

「工藤先生」

 秀幸さんは、そう言って、軽く頭を下げた。自分より、ずっと年上なのに、まるで悪いところを見つけられた生徒みたいに肩をすぼめておじきをしたので、美晴は思わず笑ってしまった。

「やめて下さい。先生、なんて」
 そう言ってから、ビニール袋を前に持ち直して、一歩、二歩と歩み寄った。
「今、お仕事帰りですか?」
 秀幸さんがたずねた。
「はい。どうですか? 最近、お料理、してます?」
 美晴がたずねると、秀幸さんは頭をかきながら、少し声を小さくして言った。

「まぁ、ぼちぼち」
「あ、これ」
 美晴は、ふと手にしていたビニール袋を差し出した。
「残りものですけど、よかったら」

 ビニール袋に入った野菜を見つめて、秀幸さんは、少し困ったような、でも嬉しいような笑みを浮かべた。そのとき、ぐう、と秀幸さんのおなかの鳴る音が聞こえた。二人は、思わず顔を見合わせた。

「あはは、ぼくも仕事帰りで。今日は、何だか実験が忙しくて、ろくに昼ごはん食べられなかったものだから」

 顔を真っ赤にして言い訳をする秀幸さんを見て、美晴は何だか高校生の男の子を目の前にしているような気分になった。

「じゃ、早くこれ持って、おうちへ帰ってください。もう、奥さんの作ったごはんが待っているかもしれませんけど」

 美晴が明るく言うと、秀幸さんは、さらに困った顔になった。

 何か言ってはいけないことを言ってしまったかもしれない、と気づくのとほぼ同時に、秀幸さんはこう言った。

「いないんだ、妻は」

「え?」

 慌てて、彼の指を探した。やっぱり、指には結婚指輪が鈍く光っている。その美晴の視線に気づいて、秀幸さんは言葉を添えた。

「いるけど、ずっと別々に暮らしているんだ」

 気まずくなってそのまま別れづらかったのか、秀幸さんは、歩道橋から降りてすぐのファミレスに、美晴を誘った。二人とも、寒くて空腹で、すぐに温めてくれるその場所を必要としていた。

 そこで、秀幸さんは、ぽつぽつと自分の身の上を話した。大学で准教授として植物の研究をしていること。奥さんとは、六年前に結婚したのだけど、子どもを産んでから体調が悪く、群馬の実家に娘と共に親と同居していること。四年間、週末に秀幸さんが群馬に通う以外は、別々に暮らしていること。

 だんだん食べるものに頓着しなくなってきたら、風邪を引きやすくなってきてね、と、秀幸さんは弱く笑った。それで、男のための料理教室、だったんですね。美晴は、ぽつりと言った。

「でも、あれ、楽しかったよ。人と一緒にご飯作って、一緒に食べるのって、あんなに楽しいんだ、って思った」

 そこで初めて、秀幸さんはにっこりと大きく笑ったのだった。

 また、作ってみてくださいね、そう言って、野菜のビニール袋を手渡して、別れた。

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