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【連載小説】「緑にゆれる」Vol.67 第七章


「カケルさんには分からないよ」

 圭は、うつむいたまま、声をしぼり出すように言った。
「ぼくの気持ちなんか、分からない」
 やわらかい夜の風が、圭のおでこをなでた。

「時々、ぼくは、はぶかれてる、って思う」

 そのひと言が、口からついて出た途端、自分の中から何かが洪水のように流れ出てくるのを感じた。

「何をしても、誰ともつながってなくて、得意なことも好きなこともよく分からなくて、みんなが持っているものも持ってなくて、お父さんもいない」

 そうか、自分は、自分のことをそんな風に、思っていたんだ。
 思いを封じ込めていた固い殻が割れてしまったよう。そこからもれ出てきた一すじの水分のように、圭のほほに涙が伝った。カケルさんは、黙って圭のことを見つめている。

「変わることだって、あるかもしれない」

 カケルさんが言った。けれど、圭にはその言葉が全く素直に受け取れなかった。

「変わらないよ」

 圭は、きっ、とカケルさんの顔を見た。

「ぼくにお父さんがいないことも、家にあんまりお金がないことも。お父さんのことを聞こうとすると、お母さんは少し困ったような顔をする。何かほしい、とか、何かやりたい、って言ったら、きっとお母さんを困らせる。お母さんを困らせたくなくて、ぼくは」

 そこまで言ったら、急にのどが熱くなって、苦しくなって、その少し後から、涙があふれ出してきた。

 きっと、お父さんは、お母さんのこともぼくのことも、好きじゃなくなって、どこかへ行ってしまったんだ。残されたお母さんは、困って、仕方なく、ぼくを育てたんだ。ぼくを生んだことを、後悔しながら。

「ぼくは、生まれてきちゃいけなかったんだ。生きていても意味がないんだ。ぼくなんか、ぼくなんか、消えてしまえばいい」

 その言葉を言った途端、ものすごい衝撃がほっぺたに走り、圭は立っていられないほど体が傾いた。ほおが、ひりひりする。なぐられたのだ。圭は、なぐられたほおに手を当てたまま、正面を見た。カケルさんが、ものすごく悲しそうな顔をして、圭を見ていた。なぐった方の手は、振り切ったまま、止まっていた。
 カケルさんは、肩で大きくひとつ息をすると、圭の両肩を強くつかんでゆすぶった。

「そんなこと、言うな。お前、お前の母さんは、たった一人でお前を生んで育てたんだぞ。そんなこと聞いたら、悲しむ。一人で育てるなんて、普通じゃなかなかできないことなんだぞ」

 どなるようにそう言った。それから、とつとつと、でもしっかりした低い声で続けた。

「あいつは、見かけよりずっと強い。お前は、そういう母親から生まれたんだ。もっと誇りを持って、いい」

 涙で視界がふくらんで、カケルさんの顔がよく見えない。しゃくりあげてしまって、何も言えない。体中が沸騰したように熱くなって、真っすぐ立っていられない。ようやく、カケルさんの腕に支えられている。

 カケルさんが、肩で大きく息をしたのが、分かった。

「どんな思いで、美晴がお前を育てているか、分かるか」

 さっきより、ぐっと落ち着いた声が、耳に届く。

「だれよりも、お前の幸せを、願ってる」

それから、カケルさんは、しゃくりあげている圭の体を、ぐっと引き寄せて、耳もとでささやくように言った。

「お前が生きているだけで、美晴は幸せなんだ。だから、生きていて、意味のない人間なんていない」

 ひとつひとつ、しぼりだすようなカケルさんの声は、少しふるえていて低く、やさしかった。

「ごめん、痛かったな」

 少し鼻にかかったようなその声がまるで合図だったように、圭は、声をあげてわぁわぁ泣き出した。

 思わぬやさしさに包まれて、あふれ出してしまったのだ。今まで、ずっとためこんでいた感情のすべてが。


 泣き止むまで、カケルさんは何も言わずに、ぎゅっとしていてくれた。強くて、頼もしい腕だった。その手は、ぐしゃぐしゃになってしまった自分の気持ちを、そっくりまるごと包み込んでくれた。


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