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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.33 第六章 風花の章

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 弟からの留守電が入っていたのは、昨夜遅くだった。第一声は、
「母ちゃん、そっちに行ってる?」
 だった。何か、美晴のとこへ行くって言って家出たきりでさ、着いた、って連絡ないから、ちょっと不審に思って。と告げていた。気になったが、もう遅かったので、次の日朝一番に実家に電話した。
「おう」
 電話に出たのは朝も一番早起きの祖父だった。
「正史から電話もらって。お母さん、来てないかって」
「ちょっと待てな」
 祖父は、家でのあれこれには口を出さない。面倒くさいことは、大体女を中心にして起こるし、首を突っ込んでも無駄だと思っているふしがある。飄々として、でもどこか威厳があって、そこに居てくれるだけで何か安心する。
「いいなぁ、おじいちゃんは。気楽そうで」
 思春期で、すべてにモンモンとしてとげとげしかった頃、おじいちゃんの部屋は、ちょっとした逃げ場だった。電話口で聞く限り、祖父はいつも通りの声だった。
「姉ちゃん?」
 正史が口をもぐもぐさせながら電話に出た。朝の慌ただしい様子が背景に聞こえる。
「本当に、姉ちゃんのとこに行ってないんだよな」
「連絡もないよ」
「じゃあ、どこ行っちゃったんだろう」
 美晴は、正史の声を聞きながら想像力を働かせる。何も思いつかなかった。美晴は、もう一つ重要なことを聞いてみる。
「お母さん、何があったの?」
 電話の向こうで、正史が声をひそめてささやく。
「特別なことは何も。いつものことだけど、また何か言われたみたい。ばあちゃんに。おれ、もう家出ないと、だからまた後で」
 慌ただしくそう言うと、電話は切れた。ツーツー、という音をしばらく聞いてから、ゆっくり受話器を置いた。

 胸騒ぎがした。幼い頃に、あった出来事。それはもう、夢のように遠い記憶になっているのだけれど、やっぱり事あると何かの波紋を心に落とす。お母さんが、いなくなる。私たちを置いて出ていく。
 あのときは引き返した道を、今度は本当に進んでいってしまったんじゃないか。
 ここではないどこかへ行きたい。その想いは、美晴にだけでなく、また、母にも強くあるのだ。ごうごうと風の強い夜だった。その夜、美晴はなかなか寝つかれなかった。
 弟の正史から再び連絡があったのは、その次の日の昼間だった。
「母ちゃん、帰って来た」
 きっぱりとした口調に、美晴は安どのため息を漏らした。
「なんだけどさ」
 正史が声をひそめる。
「何か、変なの」
「変?」
「うん」
「何か、ぼーっとして、ほとんどしゃべんないし。今朝なんてさ、紅茶に、何杯も何杯も砂糖入れてるの。母ちゃん? って声かけても耳に入んない感じで。何してんだよっ、てちょっと大きな声で言ったら、やっと気づいた」
 美晴の心に、さっと影がよぎる。
「気づいてもさ、反応鈍くって。何か、いつもの母ちゃんじゃないみたい」
 お互い、何と言ったものか、沈黙が広がった。
「母ちゃん、どうしちゃったんだろ」

 今日の海は荒れている。美晴は、誰もいない初冬の海を、ただ暴れる風に身をまかせて眺めていた。つぶやきのような弟の言葉が耳にはりついている。耳もとで風が暴れて、ぼぅぼぅと音を立てるのに、そのつぶやきはかき消してくれない。あのときは、まだ幼かった弟。母が出て行ってしまったのに気づかずに、じいちゃんの部屋でおもちゃの電車で遊んでいた。自分や母の中にある自由への逃亡に対する切ない思い。弟に、その気持ちが理解できるだろうか。
 今日は、サーファーも舞い出るとびもいない。灰色の雲の間から、まぶしいオレンジ色の空が不気味に光っている。こんなに怖い海は初めてだ。
「帰らんといかんかなぁ、やっぱり」
 思わず声に出してつぶやいてみた。ふいに、カケルと交わした会話が思い起こされる。
「ここではないどこか、って、どこへ行きたかった?」
 あれは、マリの不在のときに代役をやった帰り道のこと。しばらく考えて、美晴は答えた。
「海。海の見えるところ」
 カケルは、そっと笑った。
「じゃあ、夢がかなったんじゃん」
 そう。夢は、かなったのだ。期間限定で。
「大学卒業したら、絶対地元に戻って来るから」
 そう言って、美晴は大学を受験したのだった。家を出ることを、真っ向から反対されたわけではない。
 少しさびしそうにほほ笑みながら、行っておいで、と言ってくれた母の顔を見たとき、直感的に帰らねばならない、と思ったのだ。
 ここではない、どこか。
 その言葉を想うと、今はなぜかカケルのことが思い浮かぶ。練習のときに、いつも見つめていた彼の姿。風が吹いていないのに、なぜか彼の周りには周囲と違う風が吹いているように感じる。それは、目には見えないほどのかすかな風で、少し温度が低い。人は、それをオーラと呼ぶのだろうか。けれどその風は、昔同じ所に一緒に立っていたような、何とも言えない懐かしさを美晴の心に呼び覚ますのだ。
彼をひざに抱いて、額と額が触れ合うほどにかがみこむとき、無造作に散らばった彼の髪から、丘の稜線のようなのどぼとけから、かぐわしい匂いが立ちのぼってくる。秋のころの日に照らされた草原の匂い。日の光をいっぱいあびて風に吹き抜かれた荒野の匂い。もう花が終わってしまったあとの原っぱに、身を投げ出したときにかいだ匂いにも似ている。それはだんだんと暮れていく夕日の気配も含んでいて、美晴の心に圧倒的な切なさで迫ってくる。
 ゆっくりと彼の顔をたどる指先は、いつの間にか熱を帯び、かすかに震える。そのとき、自分の心の奥の底の、深くて静かなところも震えている。そう感じる。彼が伸ばしてくるその手を、抱きしめたい。激しい衝動が沸き起こったとき、舞台の幕は、突然、閉じてしまう。二人の演技は止まったまま、しかし永遠に時間が続いていくような、不思議な空間に心がさらわれていってしまう。
 何とかぎりぎりのところで自分を保つことができるようになって、まだ日は浅い。

 初めてラストを演じた時に起ったことを、ずっと忘れないだろう。
彼は、演技が終わったあと、ゆっくり息を吹き返すように目を開けた。黒い漆のように濡れた瞳が、自分を見つめていた。請われている――。そう感じた時の激しい動揺。自分の体は固まってしまい、しかし体の底に火がついたように熱くなって、たまらなくなって飛び出した。
 何が起こったのか、分からない。なぜ涙が出たのか、分からない。
今まで封印してきた自分の中のまだ知らない感情が、突然暴れ出したような衝撃だった。彼と出会ってから、そんなことが次々と起こる。その感情に名前をつけることから目を逸らして、ただ美晴は演技の間だけは、二人の世界に浸ることに決めた。
 だって……。美晴は夕日でまぶしい波間を見つめる。自分は、女の子としてはまるで相手にされていないではないか。交際相手のマリも、偶然見てしまったアパートから出てきた彼女も、まるで自分とは違うではないか。きれいで、しなやかで、女性的な魅力にあふれている。所せん、自分は対象外なのだ。
 そう心の中でつぶやきながら、自分に向けられたあのまなざしが忘れられない。どうして、彼は、あんな目で私を見たのだろう。

 衝撃のラストシーンからいく日か経ったとき、給湯室でたまたまカケルと二人きりになった。お互い何も言わないで、並んで立っていた。ただお湯が沸くのを待っていた。やかんのふたが、カタン、カタン、と小さく音を立て始めたとき、カケルが口を開いた。
「この前は、ありがとう」
 何のことかすぐに分からず、え、と彼の横顔を見た。カケルは、カップにお湯を注ぎながら言った。
「料理。おいしかった」
 カップを見つめたままの彼の横顔に、やんわりと湯気がかかった。まだ、何か言いたそうに口を開きかけたが、目を合わせないまま彼は出て行ってしまった。

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