ペニー・レイン Vol.1
「ねぇ、ママ
どうして あの絵は
なくなっちゃったの?」
ぼくが、そう聞くと
ママは いつも決まって
こう答えた。
「なくなったんじゃないのよ。
あの絵はね、消えたの。
音楽と一緒に」
ママは いつもそう言ったあと、
なにか なつかしむような、遠い目をした。
その横顔が、少し哀しくて、きれいで、
ぼくは好きだった。
だから
それ以上のことが聞き出せなくても
いつも 同じことを聞いたのかもしれない。
1
ぼくはママのお店が好きだった。
ここちよいジャズの音楽と、お客さんのおしゃべりと、お酒のにおい。ぼくは、大人たちの間で、会話に耳をすませた。眠くなると、ぼんやりと会話に包まれる感じがして、とても気持ちいい。あたたかい電灯の光が、にじんで二重になる。
「ディッキー坊や、もう寝る時間だろ」
隣に座った常連のニッキーおやじに頭をなでられて、ぼくははっとわれに返る。もう、寝に行く時間だ。ぼくは、お店に気持ちを半分残したまま、しぶしぶ同じ建物の三階にある家――ぼくとママの小さなアパートメントへ帰ってゆく。
いいな、大人は。これから、まだたっぷりと楽しい夜の時間が待っているんだ。ぼくは、眠気でちょっとふてくされながらも、カウンターの奥の厨房を通って、裏口に向かう。
「ママ、もう行くね」
「ディッキー、すぐ行くわ」
ママは、チーズを盛り付けながら、ぼくの方を振りかえった。
裏口を開けると、ひんやりとした空気がほほをなでた。ぼくはうす暗い階段をかけあがる。
ママは、お店にお客が入っていても、ぼくがベッドに入るときに、必ず家に顔を出してくれる。
「学校はどうだった?」
ママは、ぼくのベッドの横に座って、毛布の上からぽん、ぽん、とゆっくりぼくのおなかをたたく。
そんなふうにママと話をする時間が、ぼくの一日の終わりだ。ママの声は、普段のときより少し低く、暗い部屋に溶けるようにやさしく響く。
ママの声――。ほんとは、ママの歌う声が一番好きだ。
温かいけど、りんとしている。ステージで歌うときのママは、楽しそうで、かわいくて、堂々としていて、いつより輝いて見える。
「やっぱり彼女の歌はいいな」
と、マスターはしみじみとつぶやく。
でも、ママが歌うことといったら、年一回のクリスマスぐらいだった。
ぼくが生まれる前は、アメリカにいてプロの歌手を目指していた、ってマスターが言ってた。
「キムがねえ、一度でいいから、夜ママのお店に来たいって言うんだ」
キムは、ぼくの幼なじみだ。一つ年上の十一歳で、隣のアパートの五階に住んでいる。
「だめよ、お酒も飲めない年なのに。まだ早いわ」
ママは、少し顔を傾けて、ぼくの布団をやさしくたたく。
「うん、でも、キムはドラムがとっても上手だよ。そうだ、ママもキムのドラムにあわせて歌ったらいいんだ」
ぼくは、自分の思いつきに、少し得意げになって口をとがらせた。ママは、黙ってほほえんだ。それから、ぼくのほっぺたをなでて言った。
「いい子ね。もうおやすみなさい」
パタン、とドアは閉まり、部屋の中には青い闇がすうっと広がった。
気のせいかな。ママは、このごろ少し、疲れているみたいに見える。なんだか、ぼくの話もあまり聞いてないみたい。
ぼくはぐぐっと布団の中に顔をうずめた。そして、今夜は変な夢は見ませんように、と月に祈った。
次の日は、朝から霧が出た。
「よお、ディッキー! 待たせたな」
ドンドンドドン、と鉄の階段の上から音がする。一段抜かしで、キムが降りてきた。
「遅いよう」
まだ、十月も半ばなのに、今年は霧が出るのが早い。ぼくらは、少し肩をすくめながら、れんが道を学校へ向った。ぼくらの学校は、ロンドン郊外にある。ぼくが、昨日のママとの会話をキムに伝えると、キムはちっと舌を鳴らして、小石を蹴った。
「ちぇ、お前のママなら、そんなつまんない普通の大人みたいなこと言わないと思ったのにな」
なぜだか、キムの中で、ぼくのママは異常に評価が高い。
「だってさ、若くてキレイでおしゃれで、おまけに歌なんかうまくってさ、うちのかあちゃんと全然違うもんな」
キムはよくそう言った。
キムの一家は、韓国人だ。お父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃん、弟の六人家族だ。キムのお父さんとお母さんは、二人でクリーニング屋をやっている。ひいおばあちゃんあたりに、イギリス人の血が混じっているらしいけど、みんな黒髪黒目で、明らかに東洋人の顔をしている。ぼくは、キムのきりっとした目元と、まゆが好きだ。まっすぐな感じがして、なんかかっこいい、って思う。
「今日も朝から一発やっちゃったよ」
キムの家は、大家族で毎日がてんやわんやなのだ。いつもケンカや言い争いが耐えない。今朝は、弟がお姉ちゃんのカーラーを壊してしまい、モノの投げ合いが始まったらしい。
「ほら、見ろよ、これ」
キムは、黒い長ズボンのすそをまくった。ひざにコインぐらいの青あざができている。
「全く、こう毎日じゃまいるぜ」
ぼくの家はママと二人だ。そんなにぎやかな毎日はどんなだろう、ってちょっと思う。
学校の門が見えてきた。ぼくらは、じゃあまたあとで、と言って、それぞれの校舎に入っていった。
放課後。ぼくとキムのもうひとつの時間が始まる。
カギを開けて、ママのお店――「ディキシー・ジャズ」の暗い店内に入る。夜のお店と全然雰囲気が違って、薄暗くて少しほこりっぽい気もするけど、秘密の隠れ家みたいだ。店の中央には、ちょっと段差になった小さなステージのような空間がある。そこにはドラムセットが置いてあった。その昔、まだ店が開いたばかりのころは、そのステージでミュージシャンが生演奏をしてたそうだ。今はどういうわけかやってない。カウンターをくぐって、店のスイッチを入れると、ステージだけにライトが当たる。キムは、さっそくドラムセットが輝くステージに走り寄って、スボンの後ろポケットからスティックを取り出すと、椅子に座った。そして、スティックを振り上げると、思いっきりドラムをたたいた。
ドンドドドドドン、バシャーン
「ん~、スカッとする」
キムは、にんまりと顔いっぱいで笑った。ぼくは、ステージの上を歩き回りながら、アー、アーと発声を始める。そして、「明るい表通りで」――二十年ぐらい前の一九三〇年代にアメリカで作られたジャズの名曲――を口ずさみ始めた。
♪ コートをつかんで 帽子を持って
心配ごとは 玄関に置いて
ただ通りの陽の当たるところへ 足を向けるんだ
ピタパタという 音が聞こえるかい?
あのハッピーな音は 君の足音さ
通りの陽の当たる側じゃ 人生はとても楽しい
……
途中から、キムがマスターしたばかりのスイングを刻み始める。ぼくは、この歌が大好きだ。哀しいときでも、この歌を歌うと気分が弾む。うきうきしてくる。学校や家でいやなことがあっても、こうして歌えば忘れられる。それは、キムも多分同じだと思う。
ぼくらにとって、この秘密のステージは小さな楽しみだった。
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