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【連載小説】「青く、きらめく」Vol.34 第六章 風花の章

 鼻がちぎれそうな風の中で、美晴は形にならないその想いを抱きしめる。そこには空っぽな自分の腕しかない。
 ここではない、どこか。

「先輩は、ここではないどこかへ行きたい、と思ったこと、ないですか?」
 会話の終わりに聞いたとき、カケルは、真っすぐ前を見たまま、うーん、と言ったきりしばらく答えなかった。かなり時間が経って、質問したことを忘れたころ、ぽつりと彼は言った。
「おれは……北かな」
 ゆっくりとまばたきをした彼のまつ毛に、かすかに前髪がゆれる。
「北へ行きたい、って思ってた気がする」
 そして、彼は、少しうつむいて笑ったのだ。
「まだ、かなってないけど」

 大分、冷えてきた。美晴は、自分を抱きしめたまま、ゆっくり立ち上がる。たぶん、一たんお別れを言っておかなければいけない。足どりは重く、砂にずぶずぶと靴が埋まった。足あとさえも、風がさらっていく。

 カケルがバイトをするカフェに着いた頃には、すっかり日が暮れていた。店内は、柔らかなだいだい色のライトが灯り、寒風にさらされていた美晴を温めた。
「いらっしゃいませ。あ」
 客に向けてのあいさつをしたあと、カケルは少しだけ驚いた顔をした。
「珍しいな」
 注文したカプチーノを置いて、カケルが言った。
「ちょっと来てみました」
 えへへ、と笑ってからつけ足した。
「少しの間、学校休もうと思って」
 去ろうとしていたカケルが、ふと足を止めた。
「どこか行くの?」
 美晴が口を開きかけたとき、別のお客さんが入ってきて、カケルは、軽く手で制するジェスチュアをして対応に向かってしまった。
 軽いため息とともに窓の外を見る。外は、漆黒の夜だ。

 高度が上がると、飛行機の窓には、小さく氷の結晶がはりついてきた。空気の中にかくれんぼうしていた冬の妖精が、ぴたっと窓にはりついてその姿を現すようで、思わず笑みがこぼれてしまう。
「一緒に、ついてきてくれるのね」
 美晴は、人差し指で窓の妖精たちをくすぐった。小さい自然は、時に美晴を癒してくれる。
 北の空港は、雪で真っ白だった。いくつものわだちが、地面に白い筋をつけている。雪を降らせた厚い雲が、いく層にも重なって空を覆っている。曇天がしっくりくる。こういう空が、自分を落ち着かせる。ところどころ雲が薄くなっていて、アイスブルーのような何とも言えない色をしている。あぁ、冬のこの空気。美晴は、胸いっぱいに冷たい空気を吸いこむ。それは一本の線となって胸の奥へ降りてゆく。
「ただいま」
 うす暗い玄関を開けると、祖父が顔を出した。
「おぉ、美晴、おかえり。しばれるべ。茶でも飲め」
「うん」
 外気との気温差で、ほほや鼻先がじーんとする。凍るように、肌が冷たくなっていたのだ。
「お母さんの様子は?」
 うん、うん、と二、三回うなずいてから、祖父は言った。
「今日は何か起き上がる気がしねえって感じで。ずっと床の中にいる」
 美晴は、足にまとわりつくブーツをそそくさと脱ぎ捨て、家に上がった。
「お母さん。ただいま」
 わざと、声のトーンを上げて寝室のドアを開ける。布団の山が、むくっと動いて、少しこちらに寝返った。
「美晴?」
「そうだよ。心配で、帰ってきちゃった。ほら、お土産、買ってきたよ」
 とっさの思いつきで手にしたしらすせんべいの袋をがさがさして見せる。布団の山は、がばっとひるがえって、母がこちらを向いた。顔色は冴えないが、特に大きく変わりない母の様子に、美晴は内心ほっとした。
「お茶、入れるね」
 ほのかなグレーの光の中で、少しぎこちなく母はほほ笑んだ。
 家の中の空気が、いつもよりしん、として静かに思える。それは、母が発するトーンの低い雰囲気がそうさせているのだろうか。
「学校、どう?」
「うん。楽しい」
 母は、美晴にハーブティーをついでくれた。カップを置く手は少し震えていて、今まで手馴れていたことが、そうではなくなっていることを美晴に教えた。
「あ」
 テーブルに少しお茶がこぼれる。母は、うろうろとふきんを探しにキッチンに向かった。なかなか探せないのか、ごそごそしている。
「お母さん、そこ、そこ」
 目の前のふきんかけにかかっている台ふきんを、美晴が指さした。
「あら……やだわ」
 なんとなく、すべてにおいて力がない。
「これ、食べよ」
 美晴は、席を立つと、菓子器を取り出し、お土産のせんべいを、ざらざらと開けた。
 美晴の正面に座った母は、お茶を一口飲むと、はぁっとため息をついて、両手で自分の顔を包むように強く抑えた。
 美晴は黙ってお茶を飲むと、せんべいに手を伸ばした。そのとき、母がぽつりと言った。
「何もなかったの」
 美晴は思わず出した手を止め、静かにテーブルに置いた。
「東京に行ったけど、何もなかった」
 そう言うと、母は、自分の顔を覆って、何度もこすった。外では、また雪が降り出したようだ。
 ふと、玄関のドアがガチャガチャと音を立てて開き、にぎやかな声がした。
「あ~、また降り出したわ」
バタバタと玄関を上がってくる音がする。祖母だ。
「あら、美晴、おかえり」
 ご近所さんでお茶でも飲んできたのだろう。外の空気に触れ、顔を上気させて帰って来た。祖母は、母には言葉をかけず、自分の部屋へ向かっていった。
 母は、自分の顔を手で覆ったまま動かなかった。

 具合の悪い母に代わって、ご飯の支度はここ最近祖母がやっているようだった。元々てきぱきと動くのが好きな性分だ。さほど不満な様子もなく、夕食の準備をしている。今日は石狩鍋にする、と張り切っている。準備の途中から母も現れ、取り皿を用意したり箸置きを並べたりしている。まるで子どものお手伝いのようだ。
「でさ、その面接官と何かめちゃ意気投合しちゃってさ。合格したってわけ。あれ、筆記試験とか意味あったのかなー」
 鍋をつつきながら、正史が就職試験の様子を意気揚々としゃべっている。
 母は、食欲もあまりないらしく、途中で一人、小さくごちそうさまを言って、すみません、と頭を下げ、また寝室へ行ってしまった。家族のみんなに、一瞬気まずそうな空気が流れたが、またもとの団らんへ戻った。
 このままではいけない。
 母へ干渉しないのは、それも一つの思いやりなのかもしれない。けれど、はじかれていくのが普通になってしまっては、いけないのだ。自分が不在の間にゆるやかに訪れた家族の変化が、美晴にはなぜか妙に恐ろしかった。

   ***


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