【連載小説】「緑にゆれる」Vol.50 第六章
彼女は、岩に腰かけた姿勢そのままに、ゆっくり呼吸している。そして、何が起こっても気持ちの芯がぶれないような、強さを秘めた瞳で、カケルを見つめ返している。それは、くちびるがほどかれたときに見せた、あいまいで甘い表情とは違っていた。
ゆるやかに、はね返された。そう感じた。
カケルは、それ以上、顔を近づけるのを止めた。
おそらく――ここで今、自分が何をしたところで彼女の中の何かを変えることはできないだろう。強くなったな。そうか、お前は。それだけの覚悟で、きちんと人を愛したんだな。
遠くで、鳥の声がする。楽園で聞いたのより、ずっと遠い鳥の声だ。空高く、飛んで行ってしまっただろうその鳥の姿に、彼女の心を重ねた。
ほとんど諦観の思いで、カケルはうつむき、ゆっくりまばたきをしてから、こう言った。
「もう、行こう」
それから、そっと彼女の手に重ねていた手を離した。立ち上がって、軽く土をはらうと、ナップザックを持ってそのまま歩き出した。
ぼう然と、自分の背中を見つめているだろう彼女の視線を痛いほど感じた。けれど、バス停まで一度も振り返らずに歩いた。
周りの景色も、何もカケルの心に訴えてこなかった。
帰り道、バスの間中は、お互い無言だった。行きと同じように隣同士に座った。腕が少し触れ合って、ただ黙って座っているだけだったが、自然と頑なになりかけていたと思われる心は、ほぐれてきた。不思議だった。彼女は、普通にリラックスしている様子だ。バスの窓から、突然光が飛び込んできた。そっと、彼女の顔を盗み見ると、白い光の中で、彼女のほほは、かすかに色づいているような気がした。その横顔は、何かうれしいことを隠しているようにも見える。
どうやら、傷はたいして深くなかったらしい。彼女の様子に、安堵する。それと同時に、息が苦しいような気持ちになり、不覚にもため息が出てしまった。
小さな痛みが残ったのは、どうやらおれの方らしい。
一体、この痛みはどうだろう。ほろ苦くも、ほのかに甘い。そして、以前カフェで思ったこと――何が彼女をこんなに美しくさせたのか――という原因にぼんやりと思いを巡らせて、はっとした。それは、秘密のうちに生まれてしまった許されない愛であり、それを隠しながらも貫いて、守ろうとする強さだったのだ。
どんな男だったんだろう。話に聞いただけの彼の影が、カケルの中に立ちのぼってくる。長身で、優しくて、寡黙な中に大人の色気を漂わせた博識な彼。その影がカケルの胸を重たくふさぐ。
彼女を、美しくさせたのは。
思いがこぼれてしまわないように、ナップザックの上から組んだ手に力が入る。やわらかな彼女の呼吸が、軽く触れた右半身から静かに伝わってくる。
家に帰り着いて、どこ行ってきたの? とたずねる圭に、ふふん、と笑って、いいところ、と言ってのける美晴は、もう、いつも通りだった。母は強し。木陰で起こったことは、すべて自分の独り相撲に思われた。妙に気が抜けて、ひじをついてぼんやりしてしまう。
「ね?」
急にふられて、何が、ね、なんだか分からない。
「あぁ、ごめん、聞いてなかった」
「目の前にいて、聞いてなかったの? 大丈夫ですか?」
お前のせいだろ、と軽くつっこみつつ、言葉にはしない。
「カケルさん、すごいもの見つけたんですよね」
カケルは、姿勢を斜に構えたまま、おもむろにビデオカメラを取り出すと、例の蛾の映像を再生した。
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