ペニー・レイン Vol.11
グレースは、ロンドン滞在の七日間、家に泊まることになった。彼女が来て、毎日が急ににぎやかになった。
グレースは、毎日街へ繰り出して、買い物に観光に、大騒ぎだ。そして、夜な夜なママのお店で、その感動をしゃべりまくった。あの店がどうの、美術館がどうのと、話は尽きない。
そればかりか、店の常連ともすぐに打ち解けた。もともと顔見知りだったマスターとは楽しかった昔話に花を咲かせ、ニッキ―おやじとはイギリスの不景気話で議論する。彼女のおかげで、店のテンションはぐっと上がり、まるで違う店になったかのような感じだった。
「本当に、君が来てからは店も明るいよ。常連も足しげく通ってくる」
マスターが、笑いながらグラスをじゃっと水から上げた。
「そう? それはよかったわ。わたしでも一役買えたかしら」
グレースはひじをついて、ちょっとあごを突き出してそう言った。
「それにしても、トニー、あなたすっかりイギリス人ね」
「そうかい」
「だれもあなたがアメリカ人って思わないんじゃない。だれより自己主張しないもの」
マスターは、ははは、と笑った。
「昔からそういうとこ、あるわよね」
グレースは、からかうようにちょっと節をつけて言った。
「でも、すごくしっくりきてるわ。ロンドンもこの店もあなたに合ってるのね、きっと」
ぼくは、昼間にグレースに買ってもらった木の車をカウンターで走らせながら言った。
「グレースもずっとここに居てよ。そしたら、お店も繁盛するもん」
グレースは、声を上げて笑った。
「無茶なこと言うのね、ディッキー」
「だって」
ぼくは、わざとふくれた。グレースが来てから、ママは明るい。ぼくも、毎日楽しかった。
「経営はどうなの」
グレースは長いキセルに火をつけながら、ママに聞いた。ぼくは、聞かないふりをして車で遊び続ける。マスターも、黙ってグラスをふいている。ママは、お皿を拭きながら答えた。
「それが、今度、経営者が変わることになって。店が変わるかもしれないの」
ママの言い方はさりげなかったが、グレースは急に険しい表情になった。そして、ふーっと、深く煙を吐いた。
「店が変わる、ってどういうこと」
ママは答えない。
「この店、つぶれるの」
ずい分、はっきり言う。ママは、困ったようにグレースを見た。
「次の経営者はね、アメリカ人なんだけどプールバーか何かにするつもりみたいなの」
「つもりみたいなの、なんて、どうして人ごとみたいに言えるの?」
ものすごくきつい口調だった。ぼくらは、びっくりして手を止めた。グレースは、ママをにらんでいる。マスターが、割って入った。
「グレース。今のイギリスの経済状態を知ってるかい」
「不景気なんでしょ。分かるわよ、それくらい」
「政府がものすごく税率を引き上げてるんだ。それでイギリス人のオーナーたちは、みんな財産を手放す方向に動いている。ロンドンの町も見ただろう。数年前まであった店がどんどんつぶれてるんだ」
マスターは、グレースを説き伏せるように言った。グレースは、黙って下を向いている。キセルからひとすじの煙が立ち上る。グレースは、顔を上げてママを見た。
「もう、何ともならないの」
「店の経営業績をもっと上げて、説得すれば何とかなるかもしれないけど…」
ママは続けた。
「でも、うちのようなお店は少ない常連で持ってるようなところがあるから、多少お客が増えても飛躍的な業績は望めないの」
グレースは、何も言わずに、ただ、キセルを吸い続けた。
次の日の土曜日は、グレースにとって最後のロンドン滞在日だった。彼女は、ロンドン最後の日を、これまた買い物と市内観光に費やして、両手に大荷物を持って帰ってきた。
「ちょっと、ディッキー、ドア開けて、開けて!」
本当に、彼女が帰ってくると、ぼくの周りの空気が急ににぎやかになる。ちょうど、キムとエドが来ていて、ぼくらは三人で荷物を運ぶのを手伝った。
「はあー、ありがと。ロンドン最後の日でしょ。おみやげいっぱい買っちゃった」
グレースは、ばちんとウインクをして、それから改めてキムとエドを見て、ディッキーのお友達ね、と言った。ぼくは、二人をグレースに紹介して、いつも週末にセッションの練習をしていることを告げた。すると、グレースは、目を大きく見開いてぼくの両肩をつかんだ。
「へええ、そうなの? そんなことやってるなんて、ちっとも知らなかったわ! 今夜、お店で聞かせてよ」
「全然、全然、たいしたことしてないよ。まだ最近始めたばっかりで」
あまりの彼女の興奮ぶりに、ぼくは恐縮した。二人も、彼女のテンションにどぎまぎしているのが伝わってくる。だけど、ここまで興奮させておいて聞かせない、とは言えなかった。
グレースが、カウンターに背を向けてこちらを向いた。足を組んでひじをつき、じっとこっちを見ている。
「……そんなに見つめないでよ」
ぼくは、ステージの上から言った。グレースは、声を立てて笑った。
「たった一人の観客にあがってちゃ、ミュージシャンにはなれないわよ」
「ミュージシャンになるなんて決めてないもん」
ぼくはちょっとムキになって反論した。
「いいから、早く早く、音ちょうだい」
グレースは、業界人っぽく手をひらひらさせて言った。ぼくは、マイクの電源を入れて、テストした。エドが出した音程に声を合わせる。キムが順番に、ドラムを叩いた。
ぼくらは、エドの前奏から始まる「ユー・ビー・ソー・ナイス・トゥ・カム・ホーム・トゥ」、そして「オール・オブ・ミー」、最後に「明るい表通りで」をやった。
ぼくらが演奏して歌っている間、グレースは、まばたきひとつしてないんじゃないか、と思うほど、じっとぼくらを見ていた。顔からは笑顔が消えている。正直、冷や汗が出るほど緊張した。演奏が終わると、グレースは、ひじを外し、ぽつぽつとゆっくり拍手をした。そして、きらきらした目をぼくに向けて言った。
「なかなか、いいじゃない」
ぼくは、ほっと胸をなでおろした。
「本当?」
グレースは、こっくりうなずいた。
「驚いた。練習始めて一ヶ月でしょ。息がぴったりよ」
それは何よりうれしい言葉だった。ぼくらは、三人で顔を見合わせてにやりと笑った。カウンターの奥から、ママが大きな七面鳥の料理を持ってきた。
「はい、今日はグレースお別れの特別メニューよ」
「やったぁ」
ぼくらは、大急ぎでテーブル席についた。グレースとぼくと、キムとエドで囲む不思議でささやかなお別れパーティ。グレースの隣にぼく、向いにエド、その隣にキムが座った。
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