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【考察】未来への責任〜『第四間氷期』#3

以前の記事で安部公房の小説「第四間氷期」(新潮文庫,昭和45年)について、紹介しました。

今回は、第四間氷期のテーマについて、個人的な考えを紹介していきたいと思います。

※この記事にはネタバレが含まれています。


未来への責任

個人的にはこの小説のテーマは、現代人の「未来への責任」と考えています。

この小説は、これから来たる海底火山の噴火による陸地の水没の未来で、人類の存続をかけて、現在の人類の人間性を放棄し、水棲人間になることで回避しようとする残酷な未来についての決断を迫ってきます。

現実的にも、私たちは直観的に未来への責任を感じています。
たとえば、未来のために地球環境を守ったり、将来世代のためにお金を残したりといったことです。

これについては、私たちは何の疑問も持たないことが多いでしょう。未来世代のためにより良い環境を残していくのは私たち現在世代の責任だと。
その私たちが想像する未来世代は私たちの子どものような同じ姿、同じ価値観を想像するはずです。

しかし、第四間氷期については、この私たちの想像を水棲人間という全く異なる人類ではないと未来を生き残れないという事態に直面させ、未来の残酷さとの対決を迫ります。

この現在と断絶した未来の残酷さが、まさにこの小説の根幹であり、他の小説と異なる重厚な世界観、未来観を醸し出しているのではないでしょうか。

「つまり先生は、やはりその未来には、耐えられなかった。結局先生は、未来というものを、日常の連続としてしか想像できなかったんだ。(中略)」

安部公房『第四間氷期』,新潮文庫,昭和45年,252ページ

「(中略)ともかく君も、未来に対する罪だけは、犯さずにすませたわけだからね。大変なことなんだよ、これは…未来に対する罪というやつは過去や現在に対する罪とはちがって、本質的、かつ決定的なものだからね」

同260ページ

断絶した未来に対しての責任はあるのか

そもそも私たちは、水棲人間という姿になってまで未来を残す責任はあるのでしょうか。

勝見博士も作中で考えているとおり、それは人間性の放棄であり、なんとか水没した世界でも生きていく他の術を探すのが、私たちの責任なのではないのかと。

「かまいやしないじゃないか。水棲人間をつかった海底植民地なんかに反対して、何がわるい。それだって、新しい条件における、第二次予言値としての、立派な未来じゃないか。そんな馬鹿気た未来を、未然に防止するためにこそ、予言機の利用価値もあるんだと、わたしは信じているな」
「予言機械は、未来をつくるためのものではなく、現実を温存するためのものだと仰言るんですか?」

同253ページ

そもそも、この未来は断絶しているのだろうか。水棲人間は、姿形や考え方が全く異なるものであり、この点で現在と未来は一見して断絶しているようにみえます。

しかし、現在と未来が繋がっているからこそ、水棲人間は人類の後継者になり得ているのではないでしょうか。

水棲人間と現在の人類の共通点はなんなのか。それは、「人類の尊厳」ということで言えるのではないでしょうか。人類の尊厳とは、私たち同様、未来に対して責任を持ち続ける能力であり、豊かな想像力といった人間らしさと言えるものです。

ドイツの哲学者のハンス・ヨナスは、人類の未来への責任について次のように述べています。

「人類の尊厳」をそれ自体として語るなら、その尊厳は常にただ可能的なものとして理解されうる。さもなければ、それは許しがたい虚栄を語ることでしかない。そして、こうしたことの全てに常に先行しているのは、人類の実存である。(中略)要するに、それ(人間の尊厳)は人類自身を義務付ける常に超越的な可能性なのであって、この可能性は人類の実在によって開かれ続けなければならないのだ。(人類の)実在への義務とは、宇宙的な責任としてこの可能性を保護することに他ならない。極端な言い方が許されるならば、責任が存在するという可能性が、全てに先行する責任である。

戸谷洋志『ハンス・ヨナス 未来への責任』,慶應義塾大学出版会,2021年,152~153ページ
ハンス・ヨナス/加藤尚武監訳『責任という原理ー科学技術文明のための倫理学の試み』,東信堂,
2002年,176ページ

人類の尊厳があるとしたら、それは必ず尊厳が存在していなければいけない(可能的)なものと考えます。そのため、人類の尊厳が存在しないという事態を避けなければなりません。

そして、その尊厳の存在の大前提であるのが、人類の存在(実存)であるとしています。

人類の尊厳を保つために人類の存在が最優先であるということは、言い換えると、それは人類の変化も前提として内包されています。人類の尊厳を保つということは、私たちは歴史的に変化していくこと、歴史的に開かれた存在であることを示しています。

この点で、まさに外形的に未来は断絶しており、断絶を肯んじようとしない現在に残酷な未来の責任があるのです。

勝見博士は、この外形的な未来の断絶を人間性の放棄というように考えていますが、あくまで外形的なものにしか過ぎないという理解をすれば、未来への責任を放棄しているのは、勝見博士なのではないかという考え方もできます。

しかし、逆にいうと、ただ人類を存在させるだけではいけないのです。
人間の尊厳を保つような未来を残す責任が私たちにはあるのです。

たとえば、オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」はどうでしょうか。そこにあるのは、既存体制の再生産にすぎず、人間の自由を否定するような世界です。そこにおいては、未来への責任を果たしているとは到底言えない世界だと言えます。

けれども、歴史が人類の変化、すなわち人間像の変化を前提に考えると何が正しいのか正直わからなくなります。

その時代時代において、人間像が変化するとしたら、仮に現代人が理解し得ない人間像の登場も想定されます。この人間像は私たちから見ると動物的であるかもしれませんが、未来人から見たら人間の本質かもしれない。

こういうふうに考え始めると、正直「すばらしい新世界」だって、本当はすばらしい新世界だという解釈も可能かもしれません。

水棲人間には、そもそも人類を助けるためでも人類の改造はどこまで許されるのかといった問題も当然ありますが、本当に人間の尊厳があるのかといった疑問もつきまといます。

未来の希望

この物語の結末を絶望か希望かは意見が分かれると思います。
水棲人間は人間と同じ言葉も喋らず、価値観も異なった生物として描かれています。
作中では、外分泌腺がなくなった影響で、水棲人間は現代人と同じような心がないのではないのかとも言われています。

しかし、ラストの予言機械が見せた水棲人間の抒情的な描写は、現代人との共通点を確認させ、人類の尊厳を引き継いだ後継者として一種の希望的な結末となっているのではないでしょうか。

『第四間氷期』の他のSF作品と圧倒的に異なることは、私たちが未来を託す相手が、水棲人間という得体の知れない人間っぽい生き物だということです。私たちの持っている未来への偏見を取り払い、現代人への未来への責任を内省させる作品ではないでしょうか。

参考文献

  • 戸谷洋志『ハンス・ヨナス 未来への責任』,慶應義塾大学出版会,2021年

  • ハンス・ヨナス/加藤尚武監訳『責任という原理ー科学技術文明のための倫理学の試み』


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