見出し画像

令和阿房列車論~その19『鉄道無常~内田百閒と宮脇俊三を読む』(7)

前回までのおさらい

おさらいとして、前回の記事をリンクしておきます。

第14セクション~女と鉄道

…なんとなく男女を比べて論じるテーマはこのジェンダーのご時世扱いづらいのですが、この作品においては重要なキーワードでもあるのです。
ことにセクションの文章の始まりが『鉄道はかつて、男の乗り物であった』と書かれており、古い時代の歴史とも重なるので男女差別的な表現が出ることをご了承ください。

百閒先生が旅した時代

戦後間もない昭和20年代後半の鉄道という職場はほぼ男性だけでした。運転士や車掌は勿論、接客では列車ボーイ(百閒作品では「ボイ」と書かれている)という男性の給仕掛が担当していました。
けれどもそれは男女差別的なものではなく、戦後制定された労働基準法の「女子保護規定」によって女性は深夜労働や休日労働を禁じられたからでした。

宮脇先生が旅した時代

宮脇先生が国鉄完乗を考えるようになった昭和40年代でも、鉄道の世界は依然として男の世界でした。
宮脇先生が目指した『国鉄路線全線完乗』という「乗り鉄」の境地は、いわゆる「収集」という男の世界だと著者の酒井順子氏は作品の中で論じています。

男性が「所有」にこだわりを持つのに対して女性が求めるのが「関係」だとするならば、鉄道においてそれは「心地よく乗る」ことではないかと私は思う。

作品156頁より

国鉄完乗を目指した宮脇先生も家族旅行のエピソードがあるのですが、作品『旅は自由席』で妻とその妹、そして当時大学1年だった長女と共に立山黒部アルペンルートに向かったとき、「ここに来たことがある」と長女が言った時の宮脇先生の論じ方に興味を持ちました。
宮脇先生にとって、旅行で大切なのは「線」だと論じています。それに対して女性は「点」でしか捉えない習性があると論じています。

まとめ

宮脇先生においても、それ以上に百閒先生も男性中心の社会で生きた様が作品に出ているのもその時代背景を理解する上で必要だと思います。それだけを切り取って男女差別と言うのはある意味理解不足だし、昨今のジェンダーフリーの時代ではそれぞれの時代背景を考えた上でそれぞれ語るべきでしょう。

#鉄道無常

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?