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「空気」にあらがおうとする意志があるから「人間」だ。ぼくらは僕ら自身の声を聞くことができる存在だ。

人間を社会の歯車にたとえることがあるけれど、それは正確じゃないな、と思う。

歯車という具体的なカタチの前に、ぼくらをとりまくのは「空気」だ。

「空気」はぼくらを支配し、左右し、形づくっている。


人間の暮らす場所には、社会がある。

社会というのは、いかにもシステマチックに動いているようだが、そうじゃない。

ちょっと夜の街に散歩に出れば、そのことに気づく。

夜の街は、昼の街とは様子がまるっきり違っている。


昼間にしずかに団子が売られていた通りで、夜は性が売られている。

さびれたシャッターが連なる通りに、むっとした熱気がたちこめる。

そこにあるのは「夜の空気」だ。

昼間の空気とはちがう、夜の空気だ。


そこにいる黒子の兄ちゃんたち。

お店の女の子たち。

ライブハウスで演奏するジャズミュージシャンのカルテット。

まばらな拍手を送る観客たち。

500円のたこ焼きを300円に値下げする店主。

下品な笑い声でパーキングにたむろする若い男女。


誰一人として、この夜の街の歯車ではない。

システムとして、そのような行為をしている人間は誰一人としていないだろう。

けれど、誰もがこの夜の空気を吸い込み、空気に染まり、空気の一部としてそこにいる。

彼ら彼女らは、無意識にこの街の「夜の空気」となっている。

そして、その「夜の空気」として動き、話し、笑い、拍手し、まだ眠らないその時間に新たな「夜」を生み出してゆく。

そうして「夜」という時間はこの街に生み出され続けているのだ。

そのはじまりには、夜を「夜」たらしめる「空気」の存在があるだろう。


そこにあるのは、あらかじめ決まったカタチがあるシステムではないのだ。

なんともいえない、つかみどころのない、しかし確かにそこに存在する空気。

わたしたちは、それに混ざり合い、呼吸しながらその空気の一部としてそこに参加する。


昼には昼の空気が、夜には夜の空気が、街にはある。

カタチ以前の存在。

そういったものに染まりながら、ぼくらの一挙手一投足は左右されている。

そしてその空気との相互作用の積み重ねが、長い年月を経て、その人固有の膨大なクセとして蓄積されてゆくのだろう。

これまでの人生で、どんな空気を吸ってきたのか?

それは「その人らしさ」となる。


だが、もっと本質的な部分でのその人らしさとは、むしろ「空気に左右されない」部分にあるとも、私は思う。

その場の空気に、どうしてあらがってしまう部分。

空気に染まることを拒み、流されることに抵抗し、左右されることを嫌い、己の道を貫こうとすること。

そうした意志が、実はだれの中にもあると、私は思う。

強い弱いの違いはあるにしても。

環境に対して抵抗しようとする力が、誰の体にもある。

それこそが、「その人らしさ」ではないだろうか。


人は空気と共に生きている。

昼の街は、昼の空気によってカタチ作られる。

そこにいる人間は、その昼の空気によって、しかるべき配役をキャスティングされ、その役割を演じるように無言の圧力を受けるのだ。

まるで大気の層が数万メートルかけて地上へのしかかる気圧のように。

ぼくらをとらえる重力がある。


しかしそこで、「そうではない」と。

「わたしには、そうではない意志があるのだ」と。

そのような。「空気」にあらがう声が、体の奥底から聞こえてきたら。

迷わず飛び込め。

その声にこそ従うべきだ。

その声は、テレビからも、ユーチューブからも、スマホのポップアップからも聞こえない声だ。

つり革広告からも、雑誌の青文字からも、遠く離れた、君自身の声なのだ。

その声は、大切な君自身の声なのだ。

その声を聞け。

そのために、ぼくらはロボットではなく人間なんだ。

人間としてのカラダを持って生きているんだ。


他者や社会と同質化することのない、

しかし、完全にバラバラになることもない生き物だ。

その人間として、生まれ、生きているからこそ、不思議に聞いてしまう、君自身の声。

ほんの小さな違和感かもしれない、そんな声を聞くことを、大切にしながら生きよう。

なぜなら。

ぼくらは「空気」ではないからだ。

「空気」は吸い込むものだけれど、僕らは「空気そのもの」じゃない。

ぼくらは「人間」だ。

自分の価値を、他人に決めさせるな。

君の歩く道は、君自身が決めるんだ。

その選択が、たとえどんなに痛みを伴うものであろうとも、君自身が決めるんだ。

そのかぎりで。

ぼくらは自由を手にしているのだ。


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