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多様性に発達障害者は含まれるのか?どうすれば発達障害者は救われるのか?

こんにちわ。アヒルです。今日は昨今流行りの多様性(ダイバーシティ)という言葉に発達障害者を受け入れる余地があるのかについて少し考察して、雑感を書いてみたいと思います。

多様性の定義

昨今流行りの「多様性」という言葉ですが、まずそれがどういった文脈で使われているのかを調べてみたいと思います。まず「多様性」という言葉を広辞苑で引いてみますと

多様性…いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと。

とされており、この定義であれば、発達障害者も人間の中の一種類として含まれそうにも見えます。ただ辞書上の意味はともかく、それが具体的にどう政府の政策の中で現れているのかというと、結論から言えば、多様性(ダイバーシティ)の定義そのものは見つからないようです。例えば安倍政権下で出された「ニッポン一億総活躍プラン」(平成28年6月閣議決定)では、

一億総活躍社会を実現するためには、障害者、難病患者、がん患者等が、
希望や能力、障害や疾病の特性等に応じて最大限活躍できる環境を整備する
ことが必要である。(P16)

とされ、障碍者の活躍の必要性が認識されているように感じます。また我が国には「発達障害者支援法」という法律があり、そこでは、下記のような記載があります。

第二条の二 発達障害者の支援は、全ての発達障害者が社会参加の機会が確保されること及びどこで誰と生活するかについての選択の機会が確保され、地域社会において他の人々と共生することを妨げられないことを旨として、行われなければならない。

したがって政策面から見たときに、多様性を厳密に定義した文書はありそうでありませんが、障碍者(発達障害者を含む。)の社会参加の必要性は、政府の認識の中には一応は入っていそうです。

多様性という「ルール」と発達障害者

にもかかわらず、私は一般的に多様性という言葉が使われたときに、違和感を覚えます。多様性といったときに、ぱっと思いつくのは、女性、外国人、性的マイノリティ、そこに発達障害者が含まれている雰囲気を感じないのです。そこで理由を考えてみたときに、発達障害者と多様性という言葉の相性の悪さが考えられます。

まず第一に考えなければならないのは、多様性とはルールがないことではないです。むしろ多様性は、色々な人材がまっとうに活躍できるため(性的少数者への差別禁止や、女性の体調に応じた休暇など)のルールを整備することこそが必要な概念であって、ルールを守れる人材であれば、中に入れてあげるよということが前提となります。また、これらの「女性、外国人、性的マイノリティ」は、それぞれの特徴の違いこそありますが、基本的には、周りの(精神的な)受け入れさえあれば、男性社会における旧来の社会人と同じように働くことが可能な人々だと考えます。

これに対して発達障害者の何より悲しい点は、障害の幅があまりに多種多様で、そもそものルールを守ることが難しいことです。社会的障壁の除去といっても、発達障害者はあまりに多様な問題を抱えていて(しかも発達障害者であることから引き起こされる精神的な問題を抱えていることもある)、何を除去すればいいのか分かりません。ルールを立てて、その範囲に収まるものであれば、バックグラウンドに関わらず包含しますという旧来の多様性概念に収まりづらい人々なのです。ここに発達障害者と多様性という言葉の相性の悪さを感じます。

じゃあどうすれば発達障害者は救われるのか?

じゃあ、多様性概念に発達障害者が含まれないと考えたときに、どうすれば発達障害者は救われるのでしょう。結論から言って、発達障害者がすべきことは、まず自分の特性を理解して、社会のルールに自分をあてはめるよう、できる限りのライフハックを身に着けることぐらいしかないように思います。発達障害者を多様性という言葉が救うことは恐らくないと思います。あったとしても、それは「発達障害者」という言葉に包含されるスティグマを消すことぐらいだろうと思います。私たち(発達障害者とボーダーラインの健常者)にできることはできるだけ多くのライフハックを身に着けて、なるべく社会のルールに沿うよう、すこしづつでも発達していくことしかないのではないか。そんなことを考えるアヒルでした。

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