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道端に生えている草の下には、野菜があると思っていた

知らないことがなくなってしまったら、どうなるんだろう。最近ふと、そんなことを思う。好奇心は大事だけれど、それを使い果たすまでの何かに行きついてしまったら、人はどうなってしまうのだろうか。生きていくにつれて、どんどん世界の秘密を暴いていくようになり、歳を重ねるほど見える景色が違っていく。
昔は、何かを知ることで得る感覚の方が大きかったはずなのに、最近は世界を、人を、知れば知るほど怖くなるのはなぜなんだろう。知って得ること、知って失くすこと。人間にとって「知る」とはとても大切な経験だというのに、知るたびに何かを失う気がしてならない。



子供のころ、土の中から生える雑草を見て心が躍った。もしかしたらあの緑の下には、にんじんとか大根とか、あるいはもっとわたしたちがまだ知らない類の野菜が埋まっているのかもしれない、なんて思ったことがある。でも結局、その下にあるものは、根っこだった。引っこ抜いてみてはじめてそのことに気が付く。頭の中であんなに夢に見た野菜の図は、自分の妄想でしかなかったことを「知る」。

大人になった今でも、コンクリートからにょきっと顔をだす緑色の草を見ると、そういえばあの頃は……と、この出来事を思い出す。
「知る」というのは、時に酷だ。想像をしていたものが現実によって溶けていくあの感覚。想像は自由だけれど、この世界にはどうしたって正解があって、バランスをとるのが難しい。

まだ幼き頃のわたしは、世界を知るのは「楽しいこと」だと思っていた。知らないことを知るたびに心のどこかでワクワクが止まらなかったし、パレットに色が増えていって混ざりゆくのを楽しむように、期待をしていた。
何事にもルールがあると知った大人のいまのわたしはというと。世界のルールを全て知ってしまったとしたら。この世界から「知らないこと」がなくなってしまったらどうなるのだろうか、なんて怯えている。どうすればいいのだろうか。
あれはあれとあれでできていて、あの人はああいう時にはこうして、あの場所はこういう歴史の元でできていて。
もの、ひと、じかん、くうかん、いろ、くうき、おんど。
何もかもを知った気になった時、どうなってしまうんだろう。何もかもを知るなんて到底できないはずなのに、もしも、万が一、知り尽くしたから満足だなんて大それたことを思ったら。そんな日が来ることはまずないとは分かっているけれど、もしもそうなったらわたしは、どうなっちゃうんだろうか。

想像は、無限大だ。想像するだけなら、どこまでも自由だ。夢をみる力に勝るものなど、この世にないとさえ思う。どんなことにもわくわくして、好奇心を抱いて、まだ見ぬ世界に希望を抱いて。自分が見ている世界から新しい世界を産み出す力があることは、この世界を救う何かの手立てになる気がしている。想像で傷つき、絶望することもあるから、決して楽なものではないけれど。神様がくれた人間への贈り物だと思えるくらい、わたしにとっては想像は大切なものだ。

でも、想像をするためにも材料がいる。なにもない状態で想像をするのは難しいし、成長したいのならばやはり「知る」ことが重要になってくる。
子供の想像力は不思議なくらい未知数で、大人がわからないようなことをたまに描いたりするものだから、こちらがたまげてしまったりもする。子供って、すごい。どうしてあんなになにもかもが柔らかいのだろう。
知ることで得た知識で想像をする歳になった今、想像にも経験が必要で、やっぱり現実からは逃れられない。見たもの、聞いたもの、触ったもの、すべてが想像に絡んでくる。例えばの世界にだって、どこかの何かのエッセンスが加えられていて、純度100%の想像をすることなど不可能だとさえ思ってしまう。

知ることで得た感情で、人間は生きていくのかもしれない。
「知る」は目的ではなく、手段なのだろう。ゴールは「知る」ことではない。その先をいきてくための、手段だ。

冒頭の話に戻る。
果たして。

道端に生えている草の下が野菜だったら。
わたしは喜んでいたのだろうか。
思った通りの世界だったと、誇らしくなっていたのだろうか。

きっと違うんだろう。にんじんでも、かぶでも、だいこんでも、理論的にありえないけれどイチゴでもピーマンでも。わたしは満足しなかったんだろう。引っこ抜いて初めて「知る」現実で、世界を「知った」んだろう。それが経験になり、知識になった。

そこにあるのが根だけだと知った時、確かにわたしは愕然とした。自分が描いていたものが砕け散り、悲しさと同時に興奮をした。そうか、まだ知らないことがいっぱいあるんだ、自分の想像を裏切られることがまだまだあるんだ。心の奥底で、わくわくした気がする。
幼きわたしは世界の一部を知り、想像を裏切られた。だけど、確かにそのときの想像力は残っていて、これがどこかで活きる日が来るかもしれない。ただ、ひとつの現実を知っただけだ。想像だけの話をするならば、この話が現実的ではないのは確か、正解ではないかもしれないけれど、同時に間違いでもない。
なぜだか今、そう思えるようになったのである。どうしてだろう。今更になって、急にこんなことを書きたくなった。きっと夏のせいだ。

ありえないことを想像したって、いいんだろう。誰もがびっくらこく創造をしていいんだろう。表現をする限り、満足する日なんてきっとこないから、今までの自分を作ってくれたすべてに感謝して、何もかもをひっくり返して、逆立ちして宴を楽しむべきなのだ。窮屈でも、退屈でも、絶望しても、裏切られても、全部吸収して「知る」楽しさにしてしまえばいい。

コンクリートの下に生えていたのは、根っこ。
根っこは、すべての植物の根源。人間でいう、心臓。
わたしの想像力の下には、生き物の命があったのだ。
コンクリートの下に生えていたのが野菜じゃなかったから、新しい想像ができるようになったのだろう。

世界の秘密に、触れたみたいだ。



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