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読まれたくて書いたことなどない。生きている実感が欲しいから、今日もわたしは。

歴史上の人物は、生きているうちには評価されない方がほとんどだ。教科書に載るような、いわゆる昔の「偉人」の爪痕は、リアルタイムでは人の目にはつかず、後になって誰かにとっての大切になり、その波が大きくなり、なくなったその後偉人になることが多い。

わたしは、いつも思う。「じゃあそれって制作した方の本当の気持ちが伝わることって、ないのではないだろうか。誰かが勝手にまつりあげた、偶像でしかないじゃないか」。その人がどういう思いでその作品をつくったか、どういう環境で誰に向けて、どんな気持ちだったか。真実はどこにあるのだろうか。



正直、今の世界ってなんか腐っている気がする。とか断言するとよくないのだろうけれど、わたし個人の意見として言うならば、やはり重度に腐っている。なぜそれが面白いのか、なぜそれが話題になるのか、細かく分析すれば理解できないこともないけれど。もっとなんか、こう。違うことで意見を言い合いたいなって、そんな感じ。画面の向こうで起きている何かを想像できる、自分なりの解釈ができて思考の分別がつく、そういう人がたくさんいれば、起こりえない事件がたくさんあるはずなのに。
憶測で、亡くなった人のことを報道するテレビが大嫌い。亡くなった人の気持ちなんて、誰にもわからない。他人の本当を知ることが、どれだけ大変なことか。

ここまで奇怪な出来事が毎日起きて、面白がる人がいる。
まいっちゃうからSNSが怖くなって、でも人の目に触れるには、発信する身としてはSNSは必須で、がんじがらめだ。

頭の中がぐちゃぐちゃで、悩みごとのカテゴリーが全部違って、混ざり切らず答えもでない。毎日変な夢を見るし、悩んでいたことがまるっと夢にでてくるし、トラウマも忘れたいことも全部夢で再生されて、朝になって絶望をする。

わたしの頭の中はあまりにも汚い。汚いという言葉を使ったら、「汚い」に失礼な気もして、なんだか最近、自分の気持ちを言葉にするのが嫌だった。する気にならなかった。単純に自分の生活を守るのに必死だったということもあるけれど、でも。



知人から性被害を受けたわたしは今、
生きているようで、毎日死んでいる。
自分の中から何かが消えた。
自分が自分では無くなった。

これは、そんなわたしの今の話。重たくて汚くて、吐瀉物みたいな記事になっていることだろう。
ここからは、その事件があって感情が爆発した時に書いた自分の文章だ。

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冷静な自分に違和感はあった。むしろ毎日楽しんじゃってる気がしてて、それが妙に気持ちが悪かった。落ち着いている。落ち着いて、なんならいつもより物事がスムーズに進む。顔のコンディションもいいみたい。
最近はやけに早起き。朝5時に起きて、洗濯をして掃除をして、7時には仕事を開始している。毎日お化粧もしているし、オシャレもしている。会社の同僚からも、友達からも「元気そうだね」とよく言われる。ニコニコできていたし、仕事も捗る。毎日充実している。毎日があっという間に過ぎていく。毎日、きちんと生きている。

でも、そうじゃないんだって思う時がふとやってくる。あ、って思うたびに心に蓋をして違うことを考えて、向き合うのを避けている。
あんな出来事、なんてことないって言い聞かせて、もう何だか飲みたくないお酒を飲んで吐くまで飲んで、それにも飽きたからひとりでお酒を飲むのもやめてしまった。
心が壊れたことは自覚しているから、カウンセリングに通っている。今日は待ち時間が長くて、スマホを見る気になんだかならなくて、そこにあった資料をなんとなく手に取った。
ペラペラ流し見していたら、ある言葉が目に止まった。
「感情が真実とは限らない」
自分がネガティブになったとき、自分はなんてダメなんだ、なにもできない自分には価値がない。そんなふうに自分を責める感情が出たとして、はたしてそれは真実なのか、感情に飲み込まれてはいけない、一度冷静になってみよう。そんな内容だったと思う。納得したような、納得してないような、ぼんやりとした気持ちでいたら診察室に呼ばれた。

考えないように、心が動かないようにすることができるようになった。
あの日から確かにわたしの中で何かがなくなった。誰かの肌に触れたり、身体を重ねることは、わたしにとってはとても大切で、大事なことだったはずなのに、今はそれがどうでもよくなっている。
誰に抱かれようが、誰に何をされようが、なんの感情も湧かなくなった。何もない。人に対して愛おしさも虚しさも、なんなら悲しさもない。なんの感情もなくそういうことができるようになった。わたしは、誰になったんだろう。

もう二度と、好きな人とそういうことはできないと思うんです。そう先生に告げた時、自分でもびっくりするくらい涙が出た。涙に音があるなら、ボロボロと音が鳴っていたと思う。綺麗なものじゃなくて泥みたいに濁った涙。
自分がどうでもいい、自分の身体に嫌悪感がある、大切にされないことのほうが当たり前になった、感情を言葉にしたら気が狂いそうになった。お酒を吐くまで飲むのも、自分の身体を大切にしないのも、ある種の自傷行為をしていると言われて、腑に落ちた。傷ついたはずの身体と心を、もっと壊そうとしている、自分が嫌いだからもっと嫌いになることをしている、自分を汚いと思っているからもっと汚れようとしている。本当は大切にしなきゃいけない自分から目を背けているよって言われて、涙が止まらなかった。泣きたくもないのに。
こんなわたしに泣く資格もないのに。
バカみたいな話だ。
本当に汚くてくだらない。

感情は真実とは限らない。
でも、真実から感情は壊れる。

わたしは、死に興味がない。死にたいとは思わない。その時が来たら死ぬんだろうなくらいの感じで、怖くもないし怯えもない。
それよりももっと、叶うのならば。
消えたい。
何もかも、跡形もなく消えたい。わたしが生きていたことなんて誰もわからなくなるくらいに、消えたい。
消え方を選べるのならば、天にのぼるシャボン玉がいい。世界を映しながら透明で綺麗で、でも形があるようでなくて、見上げてたら消えてしまうみたいな、それがいい。消える時くらい綺麗でいたい。透明がいい。素直がいい。真っ直ぐがいい。そうなりたかった。

大切なものなんていらない。信じたくなんかない。全部、全部全部報われない。好きだなんて言わなきゃよかった。わたしの好きなんて、なんの価値もない。特別なんていらない。わたしが伝える言葉は、少しも価値がなく無駄だったんだとやっとわかった。仕事も頑張らなくていい。今のわたしがものづくりをするのは、世の中に失礼な気がする。やりたいことも夢もいらない。誰も求めてない。それが当たり前なんだろう。これから先、わたしはどうやって生きていくのかなんてどうでもよくて、真っ暗な夜を、光のない世界を諦めながらモルヒネを摂取しながら死にながら消えられないまま生きていくんだろう。

何もいらないのにどうしてもがくのか、どうしてこんな夜を越えようとしているのか。
あと何回こんな思いをするのか。何回。いつ。どこで。だれに。
自分でも自分がわからないけれど、生きようとしてしまっていることが惨めで仕方がない。
他人に認められないなら、自分を好きになるしかないって、溺れながら何かをしている。何かしていないと本当におかしくなってしまいそうで、何かのスイッチを踏んでしまいそうで怖い。どうせ報われないって思って期待していないから、もう失うものは命以外ないから、ある意味なんでもできる。

なんでわたし、いま泣いているんだろう。なんでわたし、書いているんだろう。爪痕残そうとしてるみたいで気持ち悪くて嫌になる。泣くたびに生きているって思うから、嫌になる。
泣くのも笑うのも、人間っぽくて嫌だ。
愛されることはなさそうだから、そんな資格ないから、だったらその分誰かを愛したい。愛してみたい。愛せるようになりたい。生まれた時から役割は決まっていたのかもしれない。
愛される人間にはなれないのならば、愛を与えられる何かになってみたい。自分は傷ついてもいいけれど、せめて誰ももう傷つけたくない。

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生きることを諦めた今。
なにかしようとかがない。よくよく考えたらあるのかもしれないけれど、本当の意味での何かはない。核がない。根っこがない。

なにかを、していないと価値がなくなってしまう。そう生きてきたのに、何もできない今のわたしに、価値はあるのだろうか。

わたしの人間関係はありがたいことにとても恵まれていて、わたしが自分から連絡する友人は本当に少ないのだけれど、みんな、輝いている。大人になるにつれてそれぞれの生活があって、わたしも自然と一緒にいたいと思う人にだけ連絡をするようになった。友達は少ないけれど、それでもわたしを見守ってくれている人がいるのは、とても幸せなんだろう。
今のわたしの周りにいてくれる人は、自分の核がある素敵な人ばかりだ。どうしてわたしといてくれるのって、また関わろうとしてくれたのって思う関係の人がたくさんだ。きっとわたしが知らないところでいっぱい苦しんでいる。笑えるようになるために、どれだけ努力したんだろうとか、その言葉をその表情で言えるようになるまでにどれだけ泣いたんだろうとか、がむしゃらすぎて自分の傷に気づいていなかったり、魂削って動いてもがいてここまでくるのに何回自分を責めたのとか。
みんな行動している。見ていると、自分が恥ずかしくなるくらいひとりひとりがすごい。
だからこそ、「好き」を形にしないと、生きている意味がないんじゃないかと悩んでいた。なにをまた、と言われそうだけれど、なんとなく言いたくて書く。

今のわたしには、なにかがない。気持ちの問題だから、もしかしたら本当はなにかあるのかもしれない。
これまでのわたしは、やりたいと思ったことは全部やった。やってきたつもりだと思う。
やらないであーだこーだ言うんだったら、全部やればいいと思ってやってきた。やってわかったことしか、やってみたことしかわたしは信じない。悩んでいる時間があれば、やればいい。経験でしか、人は自分を、他人を知れない。
そう思っていたのに。

わかってもらいたいという気持ちなどない。読んで欲しいとかない。読んでもらう方法になども興味ない。
でも、こういう人種がいるということを書いておきたかった。こんな経験をした人間が、どこかで生きていることを残しておきたかった。
なんでもかんでも、前向きにとらえるのが正解じゃないんだって、言いたい。
なんだかんだ、ポジティブを掲げている人はネガティブを持っているって知っている。この世の中に根から明るい人なんていない気もする。
定義はそれぞれだからなんともいえない。これ以上は、深堀りしなくていい。



ずっと自分を自分で追い込んでいる部分がある。それは誰かに課されたからとかじゃなくて。
追い込まれて、バカにされて、極限になって、そうなると自分の中で何かスイッチが入って、ハイになる。その状態にならないと、動けない気がしてずっと不安だった。だから、自ら自分を思いっきり潰す癖がある。叩いて潰してぶっ壊して、ハイになった状態でないとアイデアが浮かんでこなかったり、アンテナがはれなかったりする部分があるから。

こんなにも。
明日死んでもいいやと思いながら生きていく日が来るとは思わなかった。
明日やればいいや、返事は明日返せばいいや、いつか伝えればいいや。何か未来に勝手に期待して、その未来の相手にも期待をしていた。
人からの評価をすごく気にして、これを言ったら関係性が壊れるんじゃないかとか、これを伝えたらもう会えなくなるんじゃないかとか、考えて人間関係に迷ったりしたけれど。
いつ死んでいいやとなったら、もうそんなのどうでもいい。どうでもいいんだ。
この今の気持ちを最初からわかっていれば、行動ができていたのかなと思ったり。汚さから教わった、屁理屈。

「人はこの世に「たまたま」生まれ、他人から「自分」にさせられたのです。その「自分」を受け入れるためには、人から認められ、ほめられなければなりません」
【引用元「前向きに生きる」ことに疲れたら読む本」著:南 直哉】

最近読んだ本に、こんなことが書いてあった。つらつらと文章を書いていて、編集の仕事をしている私だけれど、実は別に読書は趣味ではない。以前のnoteでも書いてはいるけれど、携帯小説を書いたりエッセイを書籍に載せていただいたり、ありがたいことに読んでくれる方が増えてくる一方、わたしは本に触れて生きてきていない。
けれど、この本を読み終わったあと、すごくすっきりした。すごく納得した。
自分を大事にとか、自分を愛するとか、いわれても全然納得しなくて。
なんでみんなそんな自己愛について語れるんだ?って疑問だったけど、すべてが解決した。

自分を大切にしよう。その感覚を持てていることは、あまりにも尊い。
自分目線の話しかできないけれど、それこそみんな、褒めてくれたりポジティブなことを言ってくる。それはとても嬉しくて、見てくれてありがとうって思う。
でも、わたしには自分を受け入れる方法がわからないから、探ってもわからないから、ずっと苦しい。そういう評価を素直に受け入れて、ポジティブで自由になれたら幸せなのかと、考える。
ましてや今の自分には、諦めた言葉の方が入ってくる。前向きが正解じゃなくて良いのだと思える何かが欲しいのだ。汚くて濁った心を持つわたしにとって、美しいものはあまりに眩しくて、「頑張れ」は呪いになりかねなくて、なんて面倒くさいんだ。

明日、自分が生きている証拠はない。
誰かとした明日の約束を、守れないかもしれない。
できない約束は、悪になってしまうけれど。
生きている今、誰かに会いたいと思ったならば、会いたいって言ったほうがいい。伝えたいなら伝えたほうがいい。気持ちをそのままの温度で、今伝えて良いと思う。迷惑なのかなとか、他人と比べる常識とか、ルールとか法律とか、正直わかんないことだらけ。
でも、誰かや何かに心が動いて、身体まで動かせようと思えるって幸せだ。
嬉しいこと、悲しいこと。自分に起きたことを、他人に伝えたいって、思えるのは、どんな形でも、幸せだ。
心が動くのは、奇跡なのだ。心の音が聞こえるのは、当たり前ではないのだ。

人は、産まれてから死ぬまで、孤独だから。結婚しても、家族がいても、独りだから。
その孤独を理解して生きている人は、実は少ない。でも、わたしは、人のその孤独の生き様の、ちょっとした隙間に惹かれます。
例え身体が汚されても。明日が来る昨日までがあった。
お酒でやらかしても、失恋しても、いやなくらい明日が来ていた。それは、幸せなんだと思うから、それが続くまで、飽きるまで生きてやろうか。
特別を残そうとか、何か表現しようとか、そうじゃなくて。
わたしが今を生きていたことを、残したいなって、それだけ。それだけで書いている。
読んで欲しいなんて思わない。むしろ、もう二度と読みたくないと思われるものを書きたい。また読みたいなんて思わないものがいい。読み返したいものじゃない言葉を、わたしは突き刺すように殴り書いている。

カラカラな心にお恵みを。

精一杯、仕事しようか。
友達と、会おうか。
おいしいものを、「おいしい」って言おうか。
いつか好きな人と、花火がみれたりするんだろうか。
夏の匂いに、またちょっと期待をして。
夏が来ることに、また絶望をして。

いろんなことがあって、いつも嫌で、わたしは死ねるなら、死ぬよりも消える方を選びたいのだけれど。
流れるまま生きているだけ。理由なんてない。
書きたいときに誰のことも考えずに書いているだけ。読まれるnoteの書き方とか、よくわからないし、知りたくもない。
でもそれでいい。それがいい。
まだやるべきことがあるって思えるからいい。

明日が来て、きっと絶望しても。
じゃあしょうがないから楽しく生きてやろうかって。今の不自由を受け入れて楽しく生きていくかって。

そう思えるようになれました。
生きるのに理由なんていらない。
創作に、理由なんていらない。
理由なんて、あとから感じ取れたら良い。
それでいい。それがいい。

明日起きてまた絶望できたら、それでいい。
生きていくのに、ご立派な理由なんかいらない。
しょうもなくていいのだ。


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