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音楽史年表記事編41.モーツァルト、絶望と希望の交響曲

 イタリアで3つのオペラ公演を成功させたモーツァルトは1773年ウィーンを訪問し、女帝マリア・テレジアに謁見しますが、女帝から歓迎されることはなく、よそよそしいものであったようです。この時はまだ、モーツァルト父子は女帝から疎まれていることなど想像もできなかったのです。そして、9月には女帝マリア・テレジアはオーストリーとハンガリーに広大な領地を持つエステルハージ侯爵の夏の離宮であるエステルハーザ宮を3泊で訪問し、歓迎されるのですが、ウィーンではマリア・テレジアによるヨーゼフ・ハイドンを賞賛する献辞が掲載された歌劇「報われぬ不実」の台本が出版されるなど、ハイドンが当代随一のオペラ作曲家であるとされていました。エステルハーザ宮ではハイドンの歌劇「報われぬ不実」の上演、交響曲第48番ハ長調「マリア・テレジア」などの演奏の他、千人の農民の歓迎の踊りなどで大歓迎が行われます。

 おそらく、モーツァルト父子が女帝マリア・テレジアから冷遇されていることを知ったのはこの頃と思われます。女帝のエステルハーザ宮訪問の間に、皇帝ヨーゼフ2世から知らされた可能性も考えられます。皇帝ヨーゼフ2世は、今回のミラノ公フェルディナンドからのモーツァルト雇い入れの要望に対し、女帝がモーツァルト父子を貶める手紙を書き、フェルディナンド公の要望を反故にしたことを、女帝の身近で見ていました。啓蒙主義者の皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトには全く非がないと思っていたとみられますので、この見返りにミュンヘンの選帝侯宮廷からの委嘱オペラ「偽りの女庭師」K.196やマクシミリアン公のザルツブルク訪問を歓迎する牧歌劇「羊飼いの王」K.208のモーツァルトへの作曲委嘱に助力したものと思われます。
 モーツァルト父子は予定を繰り上げて、ザルツブルクに戻りますが、モーツァルトは絶望の交響曲ともいうべき第25番ト短調K.183を作曲します。モーツァルトはこれ以降、絶望を乗り越えるように、希望の交響曲第29番イ長調K.201、クラヴィーア協奏曲、管楽器のための協奏曲、クラヴィーア・ソナタ、室内楽曲など次々と名曲を生み出して行きます。

【音楽史年表より】
1773年7/14、モーツァルト(17)
モーツァルト父子ウィーンに向けて出発する(第3回ウィーン旅行、約2ヶ月半)。この頃、ウィーン宮廷楽長兼宮廷作曲家のフローリアン・レオポルト・ガスマンが重病に陥っており、父レオポルトはその後任もしくは他の空席になりそうな地位にヴォルフガングを売り込もうとしたとみられる。(1)
8/5、モーツァルト(17)
モーツァルト父子、女帝マリア・テレジアに拝謁する。しかし、父子は前回のミラノ滞在のときと同様、女帝に疎まれていることも知らず、ウィーンで就職できるはずはもともとなかったのである。(1)
9/1~9/3、モーツァルト(17)
ハプスブルク家女帝マリア・テレジアがエステルハージ家のエステルハーザ宮殿を訪問し、歓迎行事が3日間連続して行われた。初日にはハイドンの歌劇「報われぬ不実」が宮殿内歌劇場で上演される。ヨーゼフ・ジュースによって印刷された台本の再版の表紙には「もしわたしがすぐれたオペラを聴きたいと思うなら、マリア・テレジア大公妃がおっしゃられたと言われているように、エステルハーザの城へ参ります(1773年9/1)」と記され、その記載通りに9/1に上演された。(2)
9/24、モーツァルト(17)
モーツァルト父子はウィーンでの滞在を切り上げ、帰郷の途に着く。(1)
10/5作曲、モーツァルト(17)、交響曲第25番ト短調K.183
モーツァルトはこのト短調交響曲と翌年作曲する第29番イ長調交響曲でこのジャンルに新境地を開くこととなった。激しい感情表出を特徴とするト短調交響曲は従来、ヨーゼフ・ハイドンやヴァンハルらによる短調交響曲、いわゆる疾風怒涛(シュトゥルム・ウント・ドラング)との出会いによって生み出されたものだといわれてきた。しかし、近年では当時のウィーン宮廷で演奏されていた室内楽、とりわけ皇帝ヨーゼフ2世が好んだガスマンの短調による弦楽四重奏曲の影響がクローズアップされている。(3)
H・アーベルトは「長い期間にわたるモーツァルトの交響曲作品の中で最も重要なものであり、オペラ「ルーチョ・シッラ」以来モーツァルトの中に何回も燃え上がったあの情熱的でペシミスティッシュな気分がもっとも激しく表現されている」としている。(4)
12月作曲、モーツァルト(17)、クラヴィーア協奏曲第5番ニ長調K.175
この作品に先立つクラヴィーア協奏曲はすべて他の作曲家の作品を編曲したものなので、この作品が事実上モーツァルトの最初のオリジナルなクラヴィーア協奏曲になる。モーツァルトはこの協奏曲をことのほか好んでいた。1年後の1774年オペラ「偽りの女庭師」上演のために向かったミュンヘンへ携えて行ったほか、1778年のマンハイム・パリ旅行でもマンハイムで演奏している。また、1782年、1783年ウィーンでは終楽章をウィーンの聴衆の好みに合うようにロンドK.382に入れ替え、ハフナー交響曲などとともに演奏している。(1)(4)
1774年4/6作曲、モーツァルト(18)、交響曲第29番イ長調K.201
1773年の3ヶ月にわたるウィーン旅行後に完成した5曲の交響曲のうち1774年4/6という日付を持つこの交響曲は、6ヶ月前に作曲されモーツァルトの交響曲に新たな局面をみせた第25番ト短調K.183と並んで、この時期もっとも円熟した作品となっている。実際、形式的にも作曲技法的にも、また表現力点から見ても、これら2曲は抜きんでており、アインシュタインは小ト短調交響曲とイ長調交響曲は「ひとつの奇跡」であると述べている。(4)
【参考文献】
(1)モーツァルト事典(東京書籍)
(2)新グローヴ・オペラ事典(白水社)
(3)西川尚生著・作曲家・人と作品 モーツァルト(音楽之友社)
(4)作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)

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