エーテルの水面

二十一世紀初頭、地球上の人類は科学技術の発展による繁栄を続けていた。人類の技術はかつて先祖達が夢見、追い続けた域に手をかけていた。そんな躍進を遂げる人類の前にある時とある物質が現れた。その名を「エーテル石」。これは発見時鉱物の特徴を備えた物質であり、「エーテル鉱石」などとも呼ばれた。「エーテル石」の発見は最初、新たな元素の発見という形で科学の場に迎え入れられた。しかし、急激な発展によりあらゆる現象を解明し貪欲に取り込み続けた人類に、その物質は予想だにしない答えをもたらした。
「既存の科学では、まったくその性質や原子としての 構造を解明することが出来ない」のである。
人類はこの事態にあらゆる実験をもってして対応した。その結果、ヒトに作用して特殊な強化を行うことが可能であるということが判明した。それまでの人類は、パワードスーツや義体(サイバネティクス)による人工的な人間の強化などを実用化し、その力をもってして新たな戦力の強化を行い、戦々恐々としていた。新たな力はその様相を一層深刻化するばかりだった。
その様に混沌を極める世界情勢に、突如として地球外からの敵が現れた。人類に対しなんの宣戦布告も無いまま攻撃は一方的に始まった。人類は彼ら侵略者のことを「フォーリナー」と呼称し、対抗し始めた。
極東の地、日本ではフォーリナーの襲撃を受け再建することにより、その町並みをより科学技術を活かし、防衛に適したものへと変えていった。
霧島真也は朝のジョギングを終えシャワーを済ませていた。短髪というには少々長い黒髪を乾かし、朝食を軽めにとり、寮を出る。向かう先は自転車を乗るまでもないほど近くの自衛隊基地。
この基地は東京の市街地から少し外れた所に位置し、市街地での戦闘に備え常に出動体勢が整えられている。これもまた都市再建の過程で大きく変化した部分だ。都市付近に基地を建設する計画は発案当初猛反発を受け、発案者の解雇まで叫ばれたほどだったが、繰り返される襲撃とその被害の拡大によって皮肉にも推し進められることとなった。反対デモの集会にフォーリナーが現れ、大量の反対者を殺戮したことは因果応報なのだろうか。
霧島は基地内の更衣室に向かう。すれ違いの同僚に挨拶をしながら掲示板等に緊急性のある呼び出しがないか目を通す。更衣室に着き着替える。ここまでの足運びも目の運動も全ての動きが勤務に就いてからの積み重ねによって自動化、最適化されている。なんの感慨もなく淡々と袖を通す服は通常の自衛官の緑色ではない。特務自衛官の濃紺の制服である。
特務自衛官はフォーリナー等の特殊な事態に優先的に対処する自衛官であり、若干の違いはあれど指揮系統は通常の自衛官と同じである。わざわざ異なる制服を用意したのは、民衆向けに安心感をもたらすためである。
更衣室にはちらほらと他の自衛官が見える。朝はまだ活発になる時間ではなく、お互いに挨拶と会釈を交わす以外には乾いた制服の擦れる音がするばかり。霧島が着替え終えた頃、隣のロッカーの主であり彼の友人でもある和田武文がやって来た。
「おはよう」
姿が見える前から足音で来ることを予想していた霧島は機先を制するかのごとく先に挨拶する。
「おはよう。相変わらず朝早いなぁ、お前」
少しばかりのびのびとした返事を返す和田。実際は集合時間まで十分な余裕がある。早いと言いつつも彼も早い部類なのだ。
「習慣だよ、習慣。お前だって他のに比べりゃいくぶんか早いじゃないか」
当たり障りもなければ大した中身もない会話を始める。
「まあねぇ、余裕はあるだけ無駄じゃないから。」
キィ…と音をたてて閉めた灰色のロッカーの冷ややかさが、二月の肌寒さを意識させる。
その後とりとめのない会話を終えて更衣室を後にした二人は、それぞれの持ち場に向かう。基地の中はどこも平常運転だが、そこにどことない剣呑さを感じる。コンクリートの壁が与える無機質さ、アスファルトの光の反射が映す荒々しさ。自衛官同士の間に剣呑さがあるわけではないが、この施設のあらゆる面が優しさとかけ離れた目的の為に整えられているため、拭いきれない非人間的な雰囲気。そんなものがいつも満ちているような気がしているが、霧島は今日の空気はいつも以上に張りつめて感じる。
それは今日がここ最近で一番冷え込む日だからなのだろうか。駆け抜ける風にその考えを肯定されたような気がしてもうひとつの予感を押し殺す。嫌な予感を置き去りにするように足早になる。

八時の朝礼の後、自衛官達は再びもとの持ち場へ戻り仕事をする。霧島の所属は実働部隊であり、普段から戦闘そのものに関わっているわけではない。普段は戦闘に備えた訓練や武装の整備、他の部署の手伝いなどが仕事である。一定の周期で市街地での「見回り」などをすることもある。この見回りは隊員の乗った装甲車で行う。威圧的過ぎるという批判もあるが、エーテル石絡みの事件などの抑制になっているので、今となっては当たり前のことになっている。街に与えたフォーリナーの影響は根深く、襲撃前とでは常識そのものが置き換わっていると言っても過言ではない。
朝礼の為に着た制服はを作業着に着替え、まずは訓練場へ向かう。障害物競争を発展させたものに駆け込む先客達を横にスタートラインまで悠々とした足取りで歩いていく。走る前のストレッチは欠かさず、じっくりと身体をほぐし万全の体勢にもっていく。匍匐、中腰移動、登坂、全力疾走が連続的に要求されるコースを他の隊員が堅実にこなそうとする中、霧島は何食わぬ顔でただ走り抜けるようなペースで進んでいく。周囲は最早慣れ親しんだその韋駄天の走りを見届けるばかりである。走りきったあとも霧島は体力をもて余したようにコースの端から端までスピードを緩めながら戻る。
「お前さんのその身体のどこにそんな才能が詰まってんだい?」
このコースの常連の隊員が軽く話を振ってくる。手足を回しながら霧島は答える。
「鍛えてたのは昔からなんだ。まあそこまでがたいが良く見えないってのはよく言われる」
鍛えればこのレベルに達するとでも言うようだが、これは彼の癖だ。自分に才能があったのではない。鍛練によって今の自分があるのだと。
「はぁ…鍛えただけでそんくらいになるんだったら、俺の鍛え方は半端なのかねぇ…」
隊員の身体は霧島のものよりも一回り大きく、筋肉が膨らんでいる。一方で霧島自身は目立つほどの筋肉はないが、引き締まったしなやかな身体である。
「半端って言うより方向性が違うんだろう。単純な筋力ならお前の方が上なはずだ」
相手はやたらとこのアスレチックと呼ばれるコースに執心な隊員であり、彼は記録を抜かれる度に悔しがっていた。霧島が初めて走った時も少し恨めしそうな顔をしていた。
「そりゃそうだわな!ガッハッハッハッハ!」
筋肉の化身のような男は身体に見あった豪快な笑いをあげ、ポーズをとって見せる。彼は本当はもう記録など気にしていない。ただ何番煎じかも分からないやり取りを楽しんでいるのだ。当たり前の日常、その一部を。霧島は会釈をして別の訓練場に向かう。少しばかり微笑みながら。
訓練場と言えば訓練場であるが、そこは道場であった。
「イヤーッ!」
「イヤーッ!」
相対するは二人の防具を身に付けた男。互いの竹刀が触れ合う。互いに瞬間的な緊張が走る。
「イヤーッ!」
「イヤーッ!…」
霧島。湯坂。どちらかが仕掛けねば始まらないが、仕掛けた時に勝敗が決する。湯坂の足がそれまでの動きと異なり、上に持ち上がる。若干の予備動作が上体とズレて現れる。仕掛けるタイミングを見切った霧島は冷静に腕の描く軌跡を追う。間違いなく相手は面を狙う。この判断そのものが引き金であるかのように霧島の身体は動き出す。右足は持ち上がり、左足は床を蹴る。腕は竹刀を左斜めに上げつつ鋭く横に振り抜く。
「胴ォーッ!」
摺り足で相手の左脇を抜け左回りに残心する。
「一本あり!」
審判の声が響く。声を出す前に胴を打たれた湯坂は自身の不甲斐なさを悔やんだ。
「霧島の奴、相変わらず異様に速いな」
「ヤバいだろうあれは。一瞬だぜ一瞬」
「流石、武芸の鬼って言われるだけあるな」
試合が終わった後の道場では外野だった隊員が声を潜めながら話合っていた。離れた場所で道着を脱いでいた霧島にその声は聞こえていたが、わざわざ声を潜めている相手に中傷でもないのに突っかかっていくほど彼は愚かではない。本人としては逸脱した才など持ったつもりはない。そんな思いを密かに抱えていた。

霧島は敷地内を横断している。次に向かうのは武器庫。自身の装備の点検、調整が待っている。敷地の地面を踏み締めながら歩いていく。ここはアスファルトではなく土なため、落ち着いて気分がいい。もともと住んでいた場所では土が当たり前だったのでなおさらなのだ。
武器庫にいる隊員は黙々と自分の武器を整備している。金属の擦れ合う音とプラスチックの乾いた音が空間を満たす。
「よっ!やってるか?」
自分と自分の部下の装備の保管場所まで着いてから、先に整備をしている部下に声をかけた。
「!?隊長!」
まだ新米の気が抜けていない隊員は突然の来訪者に驚きながら立ち上がって敬礼しようとした。
「まあまあいいって。いいから整備に戻れ。部品がどっかいったらどうすんだ?」
手振りで座るよう指示しつつ自分も手近な椅子に腰かけた。椅子は少し軋みをあげながら応える。
「はい!」
上官の指示に緊張したまま隊員も腰をおろす。しかし整備に戻る気配はない。
「どうかしたか?手が止まってるぞ」
作業に戻るように促す。霧島自身は自分の装備を手に取り、確認を始めようとする。
「いえ…その…なんというか…」
「緊張してる、か?」
隊員の言わんとすることを察し、口に出してみせる。自動小銃の分解に着手しようとした手を止め、小銃を脇にどかせる。椅子に座ったまま隊員の方へ身体を向ける。
「はい…なんというか、理由は分からないんですけど落ち着かないんです」
「別に何か上から言い渡された訳じゃないんだろう?だったら普段通りに仕事をこなせば良いさ。」
隊員は首を小さく縦に振りながらも自分を納得させられていないような顔をしている。両膝に両肘を載せ両手の指を組んだ霧島は、その不安を拭う言葉を探している。
「前回のフォーリナーの襲撃から既に二ヶ月が経ちます。その間にも街で事件は起きましたが、フォーリナー側からの攻撃はありません」
「良いことじゃないか?平和な訳だし。もしかしたらやっこさん諦めて故郷に帰ったかもしれないぞ?」
心にもない言葉を言う。襲撃がないのは自分達の管轄である東京に限られた話であり、その他の地域、ましてや他の国では今も襲撃が起きている。ただ無くなって欲しいという思いと不安を拭うためだけに楽観的なことを言ったまでである。隊員もその意図を理解しているようだ。
「フォーリナーがどっか行ってくれれば俺達も楽なんですけどねぇ。本当だったら戦闘人員なんていつも暇な方が良いんですよ」
少しは不安も拭えたらしく、口調は軽くなる。
その反応に霧島も安堵を覚える。脇に置いた小銃を再び手に取り、点検を始める。
「まあそれでも、いつ誰が襲ってくるか分からない訳だし、それに備えるのが俺達な訳だ。仕事に戻ろうぜ?」
会話に終止符を打ち、作業再開を促す。隊員は同意の意味も込めて笑ってみせ、得物の手入れに力を入れる。

時刻は十一時を回り霧島は装備の点検を既に一通り終わらせていた。あの会話の後も同じ部隊の隊員達がやって来ては整備を済ませている。この部隊の中では、習慣的に午前中に整備を済ませることになっている。これは誰が決めた訳でもない不文律だ。
整備が終わってから霧島は携帯端末で今後の大まかな日程を確認していた。携帯端末と言っても一般人の使う市販品ではない。自衛隊員に配給される専用端末だ。外装が強固で軽く、自衛隊専用の通信チャンネルに繋がるように設計されている。勿論本人確認のための身分証のような役割も果たす。今後の予定といっても春に行われる祭典くらいしか目立ったものはない。この手の行事では人が一斉に集まるが故にフォーリナーの攻撃対象になりやすい。彼らは毎日のように襲撃を仕掛けてはこない。理由は諸説あるが、実際に確認する機会は得られていない。
どの隊員も皆活気付いた頃合いだった。誰もが万全と言える状態だった。それが理由とさえ思えるほど、その時はやって来た。
《全隊員に告ぐ!緊急事態発生!》
全ての隊員が作業を止め、会話を止め、警報に耳を傾ける。誰も慌てて飛び出そうとはせず、次の情報を待つ。待ちながらも頭の中では様々な状況へ対処する手順が反復されていた。
《繰り返す!緊急事態発生!》
《フォーリナーが市街地に出現!各隊員は出動せよ!》
霧島は部下と共に装備の装着を始める。朝の悪い予感、自分の予感がこの事態を引き起こしたかのような思いを殺して。
端末に指示された座標を確認し装甲車に乗り込む。他の隊員も緊張の面持ちで乗り込み、装甲車は動き出す。揺られながら訓練の内容や今までの戦闘経験を頭に巡らせる。この装甲車が停まった時、そこは戦場だろう。

第一話 完

全然進まないので暫定タイトルつけてちょっと手を加えました。三話が全然書けないんですが…