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「書く」ことには、どんな効果があるか

2020年を迎えた年末年始、私のTwitterタイムラインでは、別々のコミュニティで「書くこと」が話題になっていました。「書く」ことは、社会生活を送っている人間にとっては、食べることと同じくらい当たり前の営みで、だからこそいろんな「書く」があります。

Twitterでのやりとりを見てて気になったのは、「言語化」がホットワードになったことで、話者間で、どの「書く」について話しているのか認識の"ズレ"が生じていたことです。

そこで、私なりに「書く」についての整理をしてみようと思います。

■自分のモヤモヤを解消する「書く」

この「書く」の効能は、スッキリする。

なかなかまとまらない考えや抱えきれない感情を文字として吐き出して、自分を落ち着ける人は多いのではないでしょうか。意識的に書いて自分の気持ちをコントロールする人は少なくても、Twitterに書き放ってストレスを解消しているという人もいるんじゃないでしょうか。

カタチにならないものを”言葉”という器に収めることは、無形の不気味なものから捉えどころのあるものへの変換作業です。文章として、自分の中から切り離してみると、客観的に見られるようになります。

■自分のために記録する「書く」

この「書く」の効能は、振り返ったときに価値が出る。

備忘録のように「覚えておきたいこと」を記録することもありますが、日々のなんでもない出来事や気がついたことを書き残しておくことで、後から俯瞰して見たときに発見があります。1つの記録では気がつけなくても、複数の記録を眺めることで全体の傾向が掴めたとか、過去と現在の違いだとか、見出だせるものはいろいろあります。

■自分の覚悟を表明する「書く」

この「書く」の効能は、向き合いたいものが明確になる。

新しい年を迎えて、多くの人が初詣で神仏の前で祈念したのではないでしょうか。絵馬を書いた人もいると思います。

このときの文章は、「何をどうするか」「誰がどうなるか」など、具体的に状態の変化を表現することになります。望ましい状態とそのために必要な要素(人やモノ)が自然と書き出されて、自分が取り組もう、向き合おうとしている対象がハッキリします。そして、それを目にすること(張り出さなくても一度文章にすれば思い出しやすい)、もしくはそれを誰かに見られているという意識を持つことで、覚悟したことをやり遂げる助けにもなります。

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さて、ここからは、読み手が登場する「書く」になります。「書く」において読み手が登場するということは、つまり「書く」がコミュニケーションの道具になるということです。コミュニケーションの目的は、関係性を築くことなので、受け手がどう受け取るかがとても重要になってきます。(この話を掘り下げるのは、別の機会にします)

■特定の誰かに自分の気持ちや考えを伝える「書く」

この「書く」の効能は、自分と他者を結びつける。

ほとばしる感情のままに勢いのある文章を書きたくなるでしょう。その方が「書く」は捗ると思います。でも、読み手は面食らってしまうかもしれません。「自分の気持ちを自分以外の誰かに届けるためにはどのような言葉を選べばいいか」、「どんな順番で伝えれば受け入れてもらいやすいか」、それらの工夫を凝らした「書く」は自分が他者に受け入れられるキッカケになるでしょう。

■チームやコミュニティで掲げる「書く」

この「書く」の効能は、チームや地域を治める。

いわゆる「明文化」です。自治会の掲示板貼られたお知らせや、校則、社内規定なんかもそうですね。そこを治める代表者もしくはそのメンバーが決定して、みんなで守るために書き記し、示しておくことで、複数人が関わる場を快適にします。

このときの書き方は、コミュニティを構成する人たちすべてが、理解できる文章に仕立てる必要があります。

■世間に知らせる「書く」

この「書く」の効能は、存在を知らせる。

告知や宣伝。日本の広告のはじまりは暖簾や看板と言われています。店先に何者かを「書く」ことでその店の存在を知らせる役目を果たしていました。

ここでの「書く」の細かな内容は置いておきます。ただ、何かを広く知らせるための文章だということです。(広告によって成り立たせようとするコミュニケーション、受け手への変容はさまざまで触れ出すとキリがないので、別の話に)

■自分の発見を共有する「書く」

この「書く」の効能は、社会に多様性を加える。

エッセイなどの個人的なテキストが、不特定多数の他者のものに昇華した「書く」です。この「書く」は、読み手にとって「こういう価値観があるんだ」といった気づきになります。人にはそれぞれの視座と視点があり、自ら意識して切り替えることもしますが、他人のそれを通した解釈を文章として読むこともで、別のフレーミングを体験することができます。このように、自分とは違う価値観を相互に認知し合う(共感できなくても構わない)ことで、他者を尊重するというスタンスが獲得できるのだと思います。

この場合、書き手にも、自分とは違う価値観の誰かが読むという意識と、読み手を尊重する気持ちが必要です。お互い様です。

■ある事象を整理する「書く」

この「書く」の効能は、コミュニケーションを成立させるための土壌を整える。

これが冒頭の「言語化」なのではないかと思います。"整理する"とは、ただ文章にするだけでは済みません。その事象を理解するためのコンテキストが社会ではどれくらい共有されているかを認識したり、用いる言葉の定義に誤解が生じるものはないか、といったポイントを抑えて「書く」ことです。最近の編集の再評価に対して、編集者のスゴさについてまとめたスライドを公開しましたが、この「書く」は”編集作業”とも言えます。

事象に関して文章をまとめる際には、これまでの経緯や他者の考えを引き合いに出すことは不可欠です。この時、自分でその内容を咀嚼できていなければ、再度文章に落とし込むことはできません。たとえ、単純に引用文として紹介した場合でも、書く人には解釈が求められます。このインプットとアウトプットの工程は、思考を深め、知識の定着にも繋がるので、「スキルアップには言語化が必要だ」と言われるのではないでしょうか。

この「書く」が世の中に投げかけられると、そこには議論が生まれます。読み手は、それぞれ自分なりの感想を持ち、リアクションをします。新しい概念や抽象度の高い概念ほど、各々の定義にズレがあります。そのズレは在って当然で、ズレを確認し、すり合わせることが求められます。むしろ、「書く」理由は、事象を整理して定義することで、社会全体の知見を高めることにあるのではないでしょうか。

なので、私は冒頭で取り上げたような議論を好ましくないとは考えていません。ただ、お互いが相手を否定し合うだけのやりとりは、あまり見たくないなと思います。


最後に少し特殊な「書く」を。

■空想の物語や、印象的な音を形にする「書く」

この「書く」の効能は、創作の世界を楽しむ。

小説や詩歌を乱暴にまとめてしまいましたが、文芸の世界の「書く」です。テキストの特性、カタチのないものを文章というカタチに収めることができるという点、音や文字の並びを楽しむことができるという点、これらを使った芸術です。(出版社出身の中では、文芸リテラシーが低いというコンプレックスがあるので、多くを語るのは遠慮することにします…)

自分のための「書く」からはじまって、社会のために「書く」に広がっていく

「書く」がもたらす効能はいくつもあって、キッチリ区切ることができるものではなく、それらが積み重なって大きな効果をもたらします。

今回並べた「書く」の順番は、影響範囲が、個人→知人や身の回りの人→社会と大きくなる順を意識しました。メディアを持つためには大きな資本が必要だった時代は終わり、Webに「書く」ことで個人の力でもその影響範囲を拡大できるようになりました。(だいぶ長めですが、マス・コミュニケーションの効果研究やメディア史をザックリ振り返った noteはこちら)

noteやSNSの使い方、書き方は自由です。でも、「今、なんのために書いているのか」を意識することは求められるでしょう。公開する以上、読み手に書き手のスタンスが伝わることは外せないと思います。

どの「書く」に価値があるのかなんてことが言いたいのではありません。

自分のための書くは、ずっと続けた方が良いと思うし、誰もが必要とするもの。どの「書く」も大切なものです。

私は文章(コピーや原稿)を書いてお金をもらう仕事"も"していますが、経済活動とはほど遠いところにあるテキストも、毎日たくさん書きます。(私はSNSをブランディングに使っていないので、自分のために書き漏らしたものの方が多いかもしれません)

「書くこと」には、その時々に果たしている役割があって、どれも人間が社会生活を送る以上、欠かせないもの。そして、少なくとも読み手があって「書く」ときにはその目的を意識することを、マナーとして身につけておくことで、より「書く」ことが楽しくなるし、「書く」ことを自分の人生に活かすことができるようになるんじゃないかと思います。

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