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コンプレックス

私たちが自由になれない潜在意識での理由、
私たちの心理を縛り付けているもの、
私たちの自由意志に立ちはだかる壁、
私たちの心を閉じ込めているもの、
これらの理由に、トラウマという言葉をよくききます。

このトラウマと同じく潜在意識の中で、それとよく似た、或いは関連したもので、コンプレックスというものがあります。
あくまで私見ですが、僕が観察した中で、少しこのことを考察してみたいと思います。
これは研究発表でもなんでもなく、また学術的なものでもなく個人の見解なので、正しいかどうかは問題としておりません。異論、反論あるかもしれませんが、そういった意味でご容赦願います。

スピリチュアルカウンセラーの言葉で、クライアントの心を解放するために、そのままで良いとか、あるがままで良いとか、勝ち負けではないとか、二元の世界から脱却しよう・・・
といった言葉をよく耳にします。
しかしながら、人の心は、そういった一言で解決できるものではなく、いつまでももやもやに囚われ、それができない自分にもどかしさや絶望感を感じてしまうこともあると思います。
なぜ簡単にそういった自由な境地にならないかというと、それは生れ落ちたこの世界が、そうでないからであり、その中で生きるということは、心にとって不自然な環境に対応を迫られ、時には、トラウマ等の傷をおいながら苦しんで生きて来たからです。
その長い時間をかけて身に着いた思考や信念を、一言で溶解するには、あまりにも固く凝り固まっているのだと思います。

僕は、男性の人生を歩んでいるので、男性目線で述べてみます。
女性には、また違った目線があると思います。
それは、私たち男女が生きるこの世界は、男性社会であり、男性原理で進んでいるため、その感じ方は、男性と女性で違っていて、その問題点も違っていると考えるからです。
今でこそ、女性が社会進出をし、競争社会で生きるようになりましたが、少し前までは、女性は家にいて家庭を守る存在でした。
この自分で戦えない女性には、また別の女性の争いがあったと思いますが、それはまた別の話とします。
一方、男性は、外で戦う存在でした。
何と戦うかというと生存争いです。
狩りをして食材を調達する。
食材を栽培して安定した生活を確保する。
安定した食材を求めて略奪が始まる。
略奪する力や防衛する戦力には組織が必要になり、権力が生まれる。
権力を求めて力あるものが競争する。
権力を求めるには、人を従わせる財力が必要になる。
お金のあるものが人の上に立ち、下のものを支配するようになる。
それがこの社会の理になっていきました。

人は人より上に立つことが正しい道だと思い込みます。
学校では、常にテストにかけられ、その点数で、その子の価値を評価します。
テストの点数で、上の学校に振り分けられ、上の学校のレベルで、好待遇な会社に就くことができます。
その会社でもまた競争にのまれます。
人生は、勝ち負けで評価され、勝者には、それ相応の女性の伴侶が結びつけられ、女性もまた、彼女らの競争の中で、より自分に適した男性を求めます。
もちろん、そうでない女性も存在しますが、一般的にその価値観はあまり社会で用いられるものではないと、世間では信じ込まされてきました。
それは、メディアによって、セレブやエリート、高級といった価値観がちやほやされることで理解することができます。

かといって、全ての男性が、常に勝者でいられるわけもなく、一握りの勝者以外は、全て、成長過程で、なんらかの挫折や敗北感といった傷を負う事になります。
世界は、よりできる人を求めています。
より優れた人を求めています。
できない人や何等かで劣った人は、無価値だと評価されます。
昨今、生産性のない人を無価値だと捉える風潮はより高まっているように感じます。
親は、優れた子に育てるべく塾に通わせ、習い事に通わせます。
その結果、より優れた学校に入学させるためです。
子供は、他人より優れた点数を取り、優れた技術を習得することを課せられます。
この時に、べつにできなくても良いよ。ありのままで良いよ。という言葉は何の慰めにもなりません。
それは、敗北を認めたことになるからです。人生を諦めたことになります。
困難に出会った時にその困難を乗り切る力を要求されます。
その時のストレスは多大なものです。

現代社会は、ストレス社会です。
ストレスに打ち勝つ精神力を求められます。
ストレスを糧にするマインドを求められます。
確かに、そのストレスに打ち勝った時にその人の能力は向上するものだと思います。
しかし、それが押し付けになった場合、また競争の中での敗者という無価値な人というレッテルを貼られた場合、それはまた違った心の問題を抱えることでしょう。
それが、トラウマであり、人より劣っているというコンプレックスを生んでしまうと思います。
それは、何かの行動の結果だけでなく、例えば身長の差によるコンプレックスや容姿によるコンプレックスもあります。
これは高低や美醜という二元の中での価値観です。
学力のコンプレックス、収入のコンプレックス・・・
全て、二元の価値観です。
だから、こういった社会で生きて来て苦しんでいる、例え、それが意識的でなく、無意識の領域であっても自由でない心の持ち主に、そうでないという言葉をかけても、長い人生の中で洗脳されたマインドを解放することは簡単ではありません。
人は、優劣に囚われ、劣は恥ずかしいものだと思い込まされています。
恥ずかしい思いをしたくないために、コンプレックスを隠して、それを刺激することから避けて、無意識に恐れを抱いてしまいます。
極端な話ですが、特に日本人の魂にとって、恥は、切腹ものとして命がけの歴史があります。

もしその凝り固まった分厚い氷を解かすために、高熱のバーナーで溶解しようとするなら、その周りの健全なものまでやけどしてしまいます。
もしかすると、灰にまで焼き焦がしてしまうかもしれません。
その結果、廃(灰)人になって絶望感に苛まれるようになるかもしれません。
それがよりその人を絶望感に導いてしまうこともあるかもしれませんし、そこまで行かなくとも、できない自分への自責になるかもしれません。
できない自分を認めるということは、自分に価値がないということを認めさせることになるわけです。
実際は、全く無価値ではないのですが、そう思えるように生まれた時から殆どの人は洗脳されてきたわけです。
その人の氷河期が終わり、自然と氷塊が溶けるまで気長に待つ必要もあるかもしれません。そして、その人の氷を解かす暖かさとは、恥ずかしいことからも、恐れからも受け入れられる安心感なのかもしれません。
その人にとって、全てをさらけ出せる環境の中でしか、自分らしくあることはできないし、そのままでもいられないように思います。
これは、個人の心理的な問題だけでなく、その環境の問題でもあると僕は思っています。


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