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福祉と援助の備忘録(6)『罪はさておき人を支援す』


今回の福祉と援助の備忘録では、性犯罪者の話をする。この手の話題は目に触れるだけで大きく衝撃を受ける人も多い。専門的な話に関心がない方には読むことは勧められませんのでご注意を。



性犯罪者を対象にしたプログラムとその研究はある。窃盗癖や嗜癖などにも言えるが、ただ当事者が話し合いをするだけのグループの効果について充分な証拠は示されていない。

効果がなくてもとりあえずグループワークをするところはある。こういうものに意義があるとすれば、1.世間やに対して「それっぽいことはやっておいた」というアリバイ作り、2.「世界が平和でありますように」といった類の祈り、3.これまでそのプログラムを主導してきた者への飯のタネの提供、といったところか。

辛口になるのは、すでに研究によって良い方法が見つかっているからである。それでもかつての古いやり方を尊ぶカルチャーは残っている。残滓と言うのも酷であり手探りで時代を切り開いた先人の努力には敬意を評したいのだが、新しい効果のあるやり方を広める足を引っ張るような輩がいると悩ましい。

なんでも新しくありさえすればいい、というわけではない。「治療」というのは現代において学問的研究の上に成り立つものであり、学術的な、もっと言うと統計的な、「たしかにキク!」というお墨付きを得て始めて堂々と世に受け入れられる。効きそうなものが見つかっても常にその効果は測定され、問われ、磨き上げられつづけるのである。

近年「○○療法」なるものの大半はは欧米由来である。確かな効果が吟味され、現場でもそこそこの成績を誇り広まっているからだ。刑務所で使われている性犯罪者処遇プログラムの日本版は、カナダ矯正局のプログラムを踏まえ矯正局と保護局の共同で作られた。これが健闘している。


あえて私が見たツッコミどころから述べていこう。


認知行動療法・リラプスプリベンションといった技法が中核に用いられているが、マニュアルによればかなり様々な(エビデンスの乏しいものも含む)技法を取り入れた折衷的な総論があり、首をかしげる点もあった。あらゆる勉強をして混乱した役人が「全部入れちゃえ」とやってしまったのではないか。

例を挙げると「社会的学習理論に基づく」と言っているが「社会的」を付ける必要はない内容だし、「成人学習」「誘導学習」(誘導による発見ではなくて?)だの聞き慣れぬ用語が混じる。認知行動療法の用語についても「認知の再構成(エリス)」なんて書いてあって「あれれ?」と思う表記満載である。

折衷が問題になるのは、ときに各技法が矛盾するものを含むからだ。私はよく格闘技に例える。ボクシングと剣道の両方を学んだ場合、どちらの足を前に出せば良いのだろう?(ボクシングでは右利きなら左足が前だが、剣道では逆だ)同様に、問題に徹底して目を向ける認知行動療法と、問題には目を向けない解決志向アプローチを混ぜると、どちらの効果も失う。


性犯罪者に「あなたには反省すべき問題がある」とつきつけるのを「直面化」と言う。だが直面化には効果がなく有害であり、マニュアルでもそれは禁じている。だがプログラムでは被害者教育などの単元で見事に取り入れられている。性犯罪者に被害者の心情を思い浮かべさせることは再犯率を高めることが知られているのだが(理由は不明)。


性犯罪を病気とは認めぬ一方で、病気としての治療の仕方を採用するダブルスタンダードでもある。私はプログラムは「援助」であり、校正、矯正という言葉を使ったとしても本質は同じだと思っている。ついでに述べると、自己実現をメインテーマにする犯罪者の校正プログラムも存在するが、日本のプログラムにおいては再犯抑止が至上命令となっている。

非常識な真実と向き合うところに専門家の価値がある。司法の現場は国民感情を無視できない。「役に立ちさえすればいい」の功利主義では突っ走れない。結果、プログラムには精神論・根性論の名残りもある。

それはそれでいい。大事なのは、知見をベースにした上で現実の対応を真剣に迷うことだ。「反省が足りないから犯罪に走る」という常識の下に迷いなく直面化を選ぶのは素人である。


まあとにかく効果が出ればよいのだが、こういうのを知ってしまうと先行き不安になってしまう。



実際のプログラム運用の話に移ろう。

たとえば認知行動療法であれば、クライエントは生々しく性犯罪を起こした場面のことを思い浮かべることが重要である。ほとんどこのアセスメントがキモだと言っていい。同時に、重要だと思われずにさらっと流されやすいポイントでもある。認知行動療法の失敗の多くは、アセスメント不足のことがあり、プログラムでもこの落とし穴にハマるスタッフがいる。


プログラムに関わるスタッフの、性犯罪者に対する負の感情も問題になる。女性も多くプログラムに関わっており、受講者は男性であり、性犯罪者を裁きがちになるのは無理もない、という言い方もできる。

だがこういう逆転移は、プログラムの効果に直結する。受講者がグループに反発するときスタッフがそれを本人のやる気のせいにするようでは、プログラムの根本を理解しているとは思えない。ここで先ほどの折衷的な総論が問題になってくる。プログラムではやることがたくさんあるので、テキストをこなせば十分だと錯覚しがちだが、内容よりも原則のほうが成果に関わる。


もちろん最初からうまくいくものではない。だからプログラムに関わるスタッフは、まあまあな時間の研修を受ける。また、外部の複数のスーパーバイザーの指導もある。

だがここにも問題が生じる。そもそも誰がスーパーバイザーになれるというのだ?一つの理論の立場からは指導し難い。無理にやろうとすると、スーパーバイザーごとに矛盾する意見も出かねず、指導を受ける方はどうしたらよいか分からなくなるかもしれない。だが決して「色んなやり方があるよね」では済まない。どれかのやり方は致命的に間違いだ。



そんなこんなでプログラムをしていくのは一苦労なのであるが、気になる実際の効果である。令和2年の法務省の発表では、プログラム受講者1,444 名中、性犯罪の再犯のあった者は 217 名(15.0%)であった。比較対照群の性犯罪再犯率は22.5%であり、統計的に有意な差が見られた。


この結果は、一般の人には理解され難いかもしれないが、とても大きな意義を持つものである。法務省はプログラムにも改訂を重ねてきた。職員も研修を重ねている。プログラムにはさらなる改変が進められていく。今後にはさらなる成果が期待できるだろう。


私は思うのだが、性犯罪を犯した当人たちにプログラムを改善してほしい。プログラムを再度受けることになった者は、プログラムへの評価が厳しい。他にも「グループでは話せません」「こんなもの役に立ちません」と受講を拒む者もいるが、受講意欲がないとプログラムの効果が出ないという研究結果もあり、どうすれば参加したいと思えるかは極めて重要である。



知恵と工夫を総動員することが大事だ。


Ver 1.0 2021/7/17

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