学習理論備忘録(9) 弦も欲も張りすぎず
今回は臨床の話、行動療法の話にまでちょと踏み込む。(今回は「期待」という言葉を使っていいことにする)
仏教の言葉というのは、理解されづらい上に、誤解される。とくに「一切皆苦」と「中道」がそうだ。
前者は「この世は苦しみだらけだ」と理解されやすい。「苦」を表す"dukkha"という言葉が、日本語ではうまく訳せないのだろう。「期待から外れる」というような意味に訳すとよいのかと思っている。
苦には「愛別離苦」「求不得苦」「怨憎会苦」「五蘊盛苦」があり、最後のはよくわからんが(中途半端にボロを出すことを言うのを今回は避ける)、前の3つを見ていると、「強化子を奪われる」「強化子が与えられない」「弱化子が与えられる」ということにより、これからそれを解消する方向に行動が起こりそうな状況だ。
(してみると、「弱化子がありつづける」という「忌不避苦」とでもいうものを加える修正を計ると対称性が取れて良いのでは、などと勝手な考察をするが)
まあ心の中を考えれば「苦」は「苦」でも通じるかもしれない。
実はこのテーマ、不安症と依存症に通じている。
不安症の行動は、「回避」が基本である。「苦しみ」「恐れ」を避ける。不安症のひとつである強迫症は一見、しつこく手を洗ったり、確認をしたりと、特定の行動をする方向に向かっているように見える。だがそれは「もしこれをしなかったら、とんでもないことになる」という恐怖から逃れるためにする回避行動である。私の造った言葉、「忌不避苦」に陥っている。
求めても求めても、結局は満たされず、渇く。これが依存症である。求不得苦であるが、楽を求めるだけではなく、苦痛を「回避」するためになにかに頼ることもある。
次に「中道」だが、これはよく「中庸」の意味で誤用される。仏教はたぶん中庸を目指す宗教ではなく、あるがままを受け入れる教えだろう。
中道は、修行のありかたで、極端な苦行に走らず適度なところでやりましょう、ということだ。
ここで一切皆苦と話がつながってくる。不安症の治療は、修行に近いからだ。
まず、エクスポージャーという治療がある。
「怨憎会苦」が苦痛になるのは、それを避けつづけることによって、ますます恐れが増すからだ。「いやなことをずっと避ける」ことを期待しても、一切皆苦である。かえって不満足な結果に終わるのである。
そこであえて「怨憎会」する。イヤなものに自分を晒すのである。
そうするとどうしてよくなるかについては意見が別れるが、今はあっさりと、「慣れ」たり「ああ、そんなに怖くないんだ」と学習が上書きされたりするらしい、ぐらいに話をとどめておく。イヤなことにあえて晒されろ、である。
患者さんにはなかなか大変な治療ではある。今まで避けてきたことのツケを払うようなものだからだ。
私は今そのやりかたを直接伝授してもらえる立場にあるが、例えば死について一切考えることを避けてきた人になら「わざと死ぬことを想像してもらう」、他人に迷惑をかけてしまうことが死ぬよりも怖い人になら「わざと中指を立てて歩いてもらう」、不潔が怖い人には「便器を素手で触ってもらう」などといったことを本当にする。
不安症と診断されていなくても、なかなか大変だと思ってしまう治療である。
依存症ではイヤなものを与える、というのではなく、その人が楽になることを期待して頼っているものを「やめて」もらう。
「求不得苦」が苦痛になるのは、それを求めつづけることによって、ますます飢え・渇きが増すからだ。「ラクになる」ことを期待しても、やはり一切皆苦である。かえって満たされない。
そこで求めることをやめる。酒やらタバコやら覚せい剤やらを一切断つのである。
ただ、それらを求めることによって快楽が得られる、ということは学習されているので、基本的には欲求は変わらない。欲求ごと変えることを目指す新しい治療法もないではないが、とりあえずは概ねそういうものだと思ってもらったほうがいい。だから、依存となるものを避け「つづけ」る必要がある。
患者さんは、とりあえず1日依存するものから離れて生きるということを、日々繰り返すのである。またそれらに関わってしまうこともあるが、そういうことを繰り返しながら回復して行く。
私はそういう依存症の人と関わる機会がこれまで多かった。
不可能への挑戦とも思われがちだが、私は、いや、結構回復するものだな、と思って見ている。案外すんなりやめる人もいるものである。このすんなりが、他の人に応用することはできるだろうか、といつも考える。
まああえて大変さとして理解したければそれは容易だ。「依存症」などというレッテルを貼られていなくても、スマホによる夜更かしやついつい食べる間食をやめるのは、多くの人にとって難しい。
やりすぎる、避けすぎる。どちらも過度なのだ。治療でも言える。とにかくエクスポージャーとして晒せばよいというわけではない。苦痛さえ与えれば治る、ということではなく、治療の本質は学習なのだ。小さな修行のようなものではあるが、苦行ではない。
このへんは、仏教の用語が誤解されるがごとく、誤解される。晒すつもりが回避にひっくり返っていることがあったり、苦痛ばかりが大きくて効果がないやりかたをしてしまったりして注意が必要だ(一例を挙げると、電車が怖い人に「1駅だけ乗らせる」なんてことをしても治療にはならない。もっとも辛いところで駅を降りることになり、かえって症状は悪化するだろう)
逆に、避けるのを手伝ってしまう誤った方向性の治療もしがちである。医者というものは、不安症の治療に長けている人は稀なのだ。だからなす術を知らず、安易に「抗不安薬」を出してしまう。
一切皆苦の観点から、中道の観点からも、それは逆治療だとわかる。抗不安薬もまた「苦」、期待通りにはラクにさせてくれない、もっと不幸を増すものなのである。
ほどほどに、あえて辛い道を選ぶことが人には大事なのだ。それは人が成長する中で、さまざまにやっている。ただその過程で、たまたまにせよ意図的にせよ、やらないでいることもある。だから人それぞれにそれぞれの程度の苦手なことがあり、苦手ではないことがある。
我が身を振り返ると、香辛料をかけすぎである。夜遅くまで原稿を書きすぎかもしれない。もう少しマインドフルになり、あえてそれらを手放す不愉快さに慣れ・・・るといいんだろうねえ(みつを)
Ver 1.0 2020/8/16
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