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福祉と援助の備忘録(14) 『「依存の問題なんてない!」って・・・』


今日はアルコール使用障害の家族教室の見学をさせてもらったので、アルコール使用障害の話を書こう。

転落しやすい落とし穴と、這い上がるのが困難ないばらの道の物語である。


まずは転落の話から

一升瓶を抱え、腹巻をした中年男性が、手をふるわせながら赤い鼻をして、くだを巻いている・・・

いまだにアルコール依存症者といえばこういったイメージを持つ人がいるのではないか。今時そんなアルコール使用障害の人はいないであろう。それは昭和のマンガに出てくるいわゆるオヤジのステレオタイプである。このイメージがあるから、「自分はあんなアル中とは違う!」と否認する立派なアルコール使用障害の患者は多い。


もう少し実像に近い患者のな姿を述べてみよう。まず仕事や家庭で人とのストレスを抱えて苦しんでいる人が多い。また、元々は自信に満ちて生きていたが今はできないことも増え、それでも他人を頼れなずひそかに耐え忍んでいる男性が多い印象がある。まじめな人も多く、「あの人がお酒の問題を抱えているなんて、まさか」と言われることも多々ある。


ということで、学習理論備忘録みたいだが(自分の中では分類の基準があって、一応書き分けているのです)、アルコール使用障害について先に説明しておく。

・嗜癖の一種であり、生涯にアルコール依存症になる割合は我が国では約1%とされている(ただし海外データを見ると10倍近い開きがある。現在のアルコール使用障害の診断基準を用いれば多くの人々がひっかかるはずであり、日本では見過ごされているのでは?)
・以下のようなことが現れる
   お酒を求め(渇望)、お酒で酔いにくくなる(耐性
   お酒を飲んでいないと、神経が興奮する。イライラしたり、手がふる
  える人もいる(離脱症状

・孤立、さびしさ、内にこもる、抑うつ、依存的、他人や自分を責める、といったものがよく見られる
・病識が乏しく、アルコールの問題を認めない、軽視する
・アルコールを飲んでいない、とよく嘘をつく(否認
・基本的には治癒しない、不治の病とされている


どのようにアルコール使用障害になるか。その原因であるが、嗜癖には遺伝が大きく関わっている(リスク因子の約50%は遺伝によるものと考えられる)。また、家族の問題とも関係あることがよく指摘されている。

だがそんなことよりも、すべての人はお酒を飲む限り、いずれアルコール使用障害になることのほうを強調したほうがよいと思われる。なぜなら、アルコール使用障害になるもっとも大きな原因は、「お酒を飲むこと」だからである。

説明してみよう。

酔っていない。お酒を飲む。すると酔う。 →   また飲む

これが繰り返されるうちに

苦痛がある。お酒を飲む。すると苦痛が減る。 →  また飲む

となるのは必然であり、時間の問題なのだ。人によってその時間が短いか、長いかの違いがあるだけである。生涯飲酒を続けてアルコール使用所外に罹患しない多くの人は、そうなる前に死んだというだけだと言ったほうがよいだろう。



さて、回復への道とその支援の話だ。


底つき?

かつては、「底つき体験」を待つというやり方が流行った。体も壊し、借金も重ね、家庭も崩壊した末に、ほとほと懲りてそこから這い上がってくるから、それまでは静観するのがよい、という考えかたである。これは、治療者が疲れないし、己の無能さを認めなくてよいという点ではよいモデルである。

ただ、底が死であった患者は二度と浮上しない。浮上しない患者はもはや医者が診ることはない。すでに上向いている患者だけを診る限り、医者は名医である。

考えてみれば転落する人がどこかで落ちることをやめて上に向かった場合、そこが極小値となるのは当然である。それを後から振り返って「もうあの時は最低だった」と言うと、懲りた末に這い上がったという物語になってしまう。支援者がそんなトリックに引っかかっては、救えるものも救えなくなる。


とはいえ、なおも下りつづける者が上向くとっかかりを作るのは難しい。アルコールに依存する人は、そもそも治療に繋がらない。病院を敵視するというののもあるし、「自分は病気ではない」と思っているのもある。「いつでも自分で酒はやめられる」と、問題解決への自信もある。「俺はまだ本気出していないだけ」系の考えかたをする人を変えるのは、ほぼ無理である。

患者が「風邪なんです」と言ったら「風邪かどうか決めるのは私だ!」と怒るという医者の話があるが、アルコールの場合は逆だ。「先生、私はアルコール依存症じゃありません!」「医者の俺が依存症といったら依存症なんだ!」こんな風に押し相撲をしても、ろくなことにはならない。患者が反発して治療が遠のくから、治療者はレッテル貼りにこだわらぬほうがよい。


家族の役割

当人が問題を認めないこともあり、まず家族が受診をしたり、家族教育に参加したりということになる。

これは、なすすべもない中の藁にもすがるような行為と思われるかもしれないが、いやいやいや。単なる藁に終わらない。家族が一歩を踏み出すと、とにかく何かが変わるのである。その果てに、当人の回復に大きく差がつく。例えば、CRAFTと呼ばれる家族が当人への対応を学び、練習するプログラムなどの効果は、当人が自助グループに参加するよりもはるかに大きいという研究結果さえある。

家族が健やかになる、そこまで言わずとも疲れを減らすというだけでも、それ自体大きな意義があろう。

さらにはその副産物として、あるいは家族が当人を動機づけるのがうまくなるなどして、ついには当人が病院に行ってみようか、という話になることになる……こともある(断言はしないが)。


なんとか病院に

当人が精神科に行く気になったとしよう。さて、入院するというなら病院では酒が飲めないから役に立つだろうということはなんとなくわかる。では通院では何をするのだろうか?カウンセリング?抗酒剤を出してもらう?

詳しいことは省くが、おそらく通院のもっとも大きな意義は、通院しつづけることにこそある。断酒に失敗しようが、どんなトラブルが起ころうが、とにかく病院に行きつづければ、回復への足がかりになる何かが得られるし、努力が途絶えずに済む。もっとも重要なことは、通いつづけることだ。

(今回は自助グループの話は省略した。通院と似たような意義はあると思われる)

かくして回復のいばらの道を、患者はようやく登ることができる。まるでハリウッド映画並みの、困難につぐ困難だ。

え? ハリウッド映画? ならば、最大の山場と思われた後に、駄目押しの困難がもうひとつくらいあったりしないか?

(さらにはぐだぐだの続編、続々編と続き、完結編を迎えたりもするのだが)


精神科医、お前もか…

精神科の外来そのものの危機についても考えておこう。


精神科医師に、アルコール使用障害の治療が敬遠されているのは昔も今も変わらない。一般人ではなく、その道の専門家のはずなのにである。そもそも「アルコールは診ない」と公言する医者が多い。

この際毒を吐かせてもらおう。薬さえ出せば済むような治療に専門性はない。精神科は行動の問題を診る科だ。ほぼ徒手空拳で嗜癖という行動の問題に向かう治療こそ、精神科の本質的な技量が問われる。アルコールの治療を格下と見下し、「うちは『普通の』精神科なんで、依存症は嗜癖外来にでもで行ってください」と診療を拒否するなら、そちらこそ三下だろう。

それでも、アルコールの領域が不得手だと認めてよそに紹介するのであれば、まだかなり良心的かもしれない。腕が悪いのに引き受け、問題を直面化させてこじらせられてはかなわないからだ。それよりももっと大きな闇は、アルコール使用障害を治療の対象だと認めないことだ。そのせいで大きな病院のアルコール外来は、たびたび排除の危機に合う。

精神科で医者がちょこちょこ変わるのは患者にとってよろしくない。ましてアルコールの問題も扱える腕の良い医者は希少なので、よそへの異動があると患者は大変だ。それどころかアルコールを扱う部署ごと消えられてしまっては、ただでさえ少ない受診枠をまた探し求め、むらがらなければならなくなる。


アルコールは否認の病である、と言われる。だが、治す腕のない、あるいは治すことに関わりたくない精神科医が、病気の存在ごと否認するのは、患者自身の否認よりも深刻である。


Ver 1.0 2022/3/12

Ver 2.0 2022/4/23

福祉と援助の備忘録(13)はこちら。



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