ライトノベルの手段化

SNSがコミュニティの細分化を加速しているという話があるが、先日話題になったこの話、私的にはその一端であると思う。

ライトノベルがライトノベルと分類されるようになった時代(ここではライトノベルとは特定のレーベルやブランドによって分類されている群を指すものとする)と比べて、我々はSNSが広く普及した時代を過ごしている。特に若い世代については何をか言わんや、だ。

そのため、その登場当初と比較してライトノベルは「目的」から「手段」へとその姿、あり方を変えたと思う。

登場当初はライトノベルというコンテンツを楽しむこと、それ自体が「目的」であったのに対し、現代におけるライトノベルは狭いコミュニティにおいて話題を共有し、そのコミュニティの仲間意識、結束を深めることこそが目的となり、軽文学としてのライトノベルというコンテンツを消費し、楽しむことはそのための「手段」になったのだろうと思う。

勿論、昔からそういう側面もあったことは確かだろうが、現代においては特にその役割が強まり、またコミュニティの規模は小さく、その数は増えているだろう。

そして、このツイートで語られた話はそういった状況の中で生まれた「異なるコミュニティ間で起きた対立」なのではないだろうか。軽文学がその「軽」としての側面を強め、同時にコミュニティの規模が小さくなっていった時に何が起きるか。それは「コミュニティ間の分断」だ。

格差社会がその経済格差や文化格差によってコミュニティを分断し、SNSが小さく小さく分かれたコミュニティ内での結束、坩堝化を加速することでその溝を深め、分断を加速する。その結果がこれだ。

35才の彼が所属するコミュニティは最早「ライターのコミュニティ」ではなく「筆者と読者のコミュニティ」と繋がっているのだ。そして、彼にとって「モーリス・ルブランの原作も知らないのにライターをやっているのか?」(実際にそんな高圧的な態度を取ってはいないだろうが、彼はそのように感じたであろう)と言ってくる様な人間はただ単に「コミュニティに土足で踏み込んでくる無粋な輩」に他ならない。

昔は若者にとってその役割を担うのは「最近の若いものは」と言ってくる老人だったであろう。それは恐らく、年齢と権力に強く相関があり、その権力の格差がその関係を形作ったのであろう。現代では、それを経済格差・文化格差が担っているのではないか。

私の友人で、文章を書く人間が「最近の若者が好む文学にはついていけない」「これが何故受けているのか分からない」というようなことを嘆いていた。宜なるかな、彼らは文学を見ていないのだ。文学はあくまで友人と話題を共有するための手段にすぎず、そのクラスターにとって心地の良い、気軽に楽しめるものでなくてはならない。

この目的において、筆者の知性を感じさせるような文章はノイズであることすら飛び越え、害悪でしかない。そういった読者にとって、文章の向こうにいる筆者の人格や知性の存在を感じさせられる文章は「不快」なのだ。なぜならそれは自己と筆者の間にある「格差」を感じさせるからだ。

ツリーには「モーリス・ルブランは一般教養だ」といった意見が見受けられたが、35才の彼が所属するようなコミュニティにおいては教養人であること自体がコミュニティに対する抜け駆け、背信行為と見なされるだろう。私たちは、互いにそういった文化の異なるコミュニティの存在を認め、尊重しなければならない。異なるコミュニティのどちらかが正しく、どちらかが間違っているというような論点はレッテル貼りでしかない。

若者の間で、若者にしか分からない文学が流行るのも「大人に対する防波堤」といえるだろう。若者たちは、若者たちのコミュニティに大人に土足で入り込んできてほしくないのだ。

無論、彼の態度に問題があることは言うまでもない。しかしながら、私(主体)と彼(客体)の間には違いがあり、私には私の事情があるように、彼には彼の事情があり、それは互いに預かり知らぬことなのだ。現代は、そういった事を意識しなければならない時代なのだ、といったことを再認識させるエピソードであった。