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【ホラー短編小説】 淵 3

 ――時を忘れ、永遠に続くかとも思われた状況が、日が傾くことによって少し変わった瞬間、はじめはふと我に返った。
 が、我に返ったと思ったのは、女の声を聞いたからだった。
「はじめ」
 優しい声は、記憶の彼方から、囁くように聞こえてきた。最初、一は気のせいかと思ったのだが、もう一度、核心を突くようなはっきりとした発音で「はじめ」と呼ばれたとき、はっとして眼下を見直した。
「母ちゃん?」
 呼びかけに、遠い昔、まだ歩き始めたかどうかというころ、愛しげに自分の名を呼んでくれていた母親の面影が甦った。
 一のもっとも古い記憶は、自分が二本の足で立ち上がった瞬間である。よくほかの子たちより幼いころの記憶を覚えていると言われるが、母親と過ごした短かった期間にしがみつくように、自分がまだ赤子であったときの記憶を一は持っている。
「はじめ」
 また母親の、気持ちを溶かすような声がした。いま一は眼下の水の上に浮かぶ水死体を眺めていた。夕闇が迫ってきて、その姿は段々とかげに覆われていこうとしている。
 見ているうちに、死体の女の顔は、ゆっくりと母親の顔になっていった。赤ん坊のころの鮮烈な記憶に刻まれたその顔は、懐かしくて、恋しくて、そのふところに飛び込んでしまいたいほどの郷愁を覚えさせる。
「来たらいけん」
 母親が言った。一の意図が伝わったかのようであった。
 だが、そう言いながら、夕闇とともに、見えない手が一の周囲を包み始めたような気がした。それは夏の日暮れの怪しい色彩に染まった淵に反射して、緑色に変わった水面から無数に生え出て一を取り囲もうとするかのようであった。
「一緒におるよ。いっつも、一緒におるけえな。母ちゃんのところにはな、まだ来たらいけんので」
 一には、母親が言う意味がわからなかった。一緒にいるのなら、なぜ母ちゃんのところに行ってはいけないのか。
 ……一の背中を赤く染めていた夕日はついに山に隠れ、長い夏の日の終わりを告げた。
 その瞬間、不意に目の前の景色が鮮明になった。何かに背中を押されたような衝撃を感じて、気がつくと見えない手に包まれていた感覚は消えていた。
「帰ろう」
 一はようやくきびすを返し、淵と死体を背にしてもと来た道を戻っていった。


 家に帰ると、夕飯が用意されていた。怜子叔母さんの作った肉団子を、一は白いご飯と一緒に黙々と食べた。
「ほら、もっと生野菜も食べなさい」
 母の二つ年下の妹である怜子は、慈悲深い眼差まなざしを向けて一に言った。姉である美鈴が亡くなってからというもの、離婚をして三重県のほうから帰っていた叔母はこの家に入り、何かと一の面倒を見てくれるようになっていた。
 
 夕食のあと、一はテレビを観た。食事の前にはガッチャマンがやっており、食事中にはNHKでプリンプリン物語を観た。そしていまは、ゴールドライタンの時間だった。今日は子ども向けの番組が三つ立て続けに放映される、楽しみな日だった。
 そのせいかどうかはわからないが、一は怜子に今日見たもののことを言いそびれてしまった。あるいは普段からボーッとしていて口数の少ないこの子どもが、大人に向かって何かまとまった話をしようとするなどと、大人のほうも思いもしなかったせいかもしれない。
 
 ともかく一はテレビアニメに見入った。ゴールドライタンは、一のお気に入りのアニメである。手のひらに乗るくらいの小さな金属製のライターから顔と腕と足が出て、正義のヒーローに変身して悪を退治する様は、爽快であると同時に男の子の夢を無限に広げるのだった。
 自分もいつか、ヒーローに変身する小さなライターを持ちたい、と、一は真剣に考えていた。コスモスという子ども向けの玩具が出てくるカプセル自動販売機にゴールドライタンが登場すると、お小遣いをもらった日には真っ直ぐに玩具屋の店先に行って、友人たちと小さなライターが出るよう願をかけながら、ガチャガチャと販売機の取っ手を回したものだった。
 
 アニメに夢中になっていた一はふと、変な感じを覚えた。それは生まれてから一度も味わったことのない不思議な感覚だった。誰かが自分のすぐ近くで、それも自分と重なっているのではないかと思うほど身近に感じられる場所で、一緒にアニメを観ているのである。それはひとつの双眼鏡を二人で片方ずつのぞいているような親密感で、なぜか懐かしいような気さえされるのだった。
 テレビを消したあと、一はアニメの余韻に浸りながら、居間と仏間のあいだのふすまに寄りかかっていた。敷居の上に座っていたのでお尻が痛かったが、そんなことも気にならないくらい、頭がぼんやりとしていた。
 子どもには時々、夢と現実の境目がわからなくなるような時間が訪れるものだ。
 その不思議な時間は、その日はいつもより長く続いた。一はぼーっとした頭で、ただ呆然としていた。三本も立て続けにアニメを観たせいか、頭の中が熱っぽくもあった。
 ふと、一は体育座りをしている自分の膝に目をやった。そこにはいつもと変わらない、見慣れた膝小僧がある。
 一は何も考えず、膝小僧を見つめていたが、そのうちふっと、「この膝小僧に爪楊枝を突き刺したらどうなるかな」という考えが頭に浮かんだ。
 それはまったくらちもない考えであったが、それだけに子どもの単純な思考の上に突如浮かんだ、即物的な疑問であり欲求であった。そしてそうすると、一はいま自分の頭に浮かんだアイデアを実行に移したら何が起こるか、知りたくてたまらなくなった。
 一は居間から一段下がったところにある台所に下りて食器棚を開け、爪楊枝を取り出した。そして半ば朦朧もうろうとしたような、半分無意識の状態だということを自分でもわかっていながら、もといた場所に戻ってきて座った。
 実はこのとき、一の頭の中で、誰かがしきりに囁いていたのだった。その囁きは強く、執拗しつようで、後退することなく、一瞬の躊躇ちゅうちょも許さない絶対的なものだった。
 なので一はその声に従うかのように、迷わず行動を起こした。そのころには、ほとんど我を失って無意識の状態だったように思う。
 一は、剥き出しになった自分の左の膝小僧に迷うことなく爪楊枝を突き立てた。爪楊枝は皮膚を突き破って、ククッというわずかな音を立てながらその下の肉に食い込んだ。
 痛い!
 そう叫んですぐに抜き取るかと思ったのは一の意志だったに相違ない。だがその一方で、どうしてだか一の意識の一部はその行為を止めることはなかった。それどころか、突き立てた爪楊枝をそのままにして、楊枝が刺さった膝小僧の皮膚の状態を、つぶさに観察したがった。
 その感覚は、自分のものであって、自分でないようであった。
 あるいはそれはテレビを観て興奮した自分の頭が熱をもっていたせいで見た、幻だか夢だか、何か想像上の一場面だったのかもしれないと、あとになって一は思った。
 というのも、その瞬間のあとのどんな瞬間にも、左の膝の皮膚には穴など開いておらず、些細な傷痕さえも残ってはいなかったからである。
 一はその記憶をどう扱っていいかわからず、しばらくのあいだ悩んでいた。

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