続・統一教会の脱会二世さんたちの心のケアについて
先に投稿した本文中には書きませんでしたが、私個人が実際にやることに関連しては、こちらがむしろ本文かもしれません😅
あちらで扱っていた専門のケアではない部分などに関して、統一教会のことと関係なく、趣味などで人間関係を作って一般の人と脱会者が一緒に楽しむ時間や場が重要なのは言うまでも無いことでしょう。ゲームでも何でもいいと思います。
メンタルのケアと言う点については、個人的にもそうですが、むしろ一般人が積極的にすべきことは専門的ケアと言うよりも「脱会二世の方たちと楽しいことを一緒に体験すること」などで、それが一般人側ができる最大のケアになるのではないか、と思っています。
普通、子供は自分の好きなものをいろいろ自分で見つけて、そのなかから選んで…を繰り返して「自分」を作っていくものですが、カルトの宗教家庭の子供時代はそういうことが許されず、宗教だけを好きでいるように強制されます。
「自分で主体的に考えようとしてもカルトの精神的支配が抜けない」
と悩んでおられる方を多く見ますが、それに対して周囲の一般人が、単に
「論理的に考えられるように自分で意識しよう」
などと言うだけでは仕方なく、それに先立ってカルト被害者の側で「自分」を作っていくプロセスが必要であり、その部分に市民個人個人も参加するべきだと思っています。
私はこの「自分」の形成が、本来は子供時代の「遊び」を通して行われていると思っています。そのため、現実にシリアスな問題を抱えている方たちからすればお気楽な提案だと思われるかもしれませんが、このような提案をさせていただいています。
遊びと言う面では、創作物・フィクションの力にも期待していて、カルトの教義もいわば抑圧的なフィクションです。それの克服は、別のフィクションに対する受容、もしくは拒否を通して行われるのではないかと思っています。
この界隈の方として有名なデビルさんが「Vtuber」という半分仮想の人格を作っているのにも、あの方ご自身にとって、そういう精神面へのポジティブな機能があるのではないでしょうか。
また、ゲームを一緒にプレイするなどだけではなく、漫画、アニメなどのフィクションを消費して、その内容について一般人も交えて共有し、話し合ったりすることも「遊び」の機能を持っていると思います。
そうする中で、例えばある作品の内容(キャラクターの行動や思考など)に不満を感じ、それを自分の口で表現することなどを通じて、自らの感じた怒りや憎しみなどを否定するのではなく、その存在自体は認めながら、かつ無理なくバランスをとって「自分」を維持することができるようになるのではないかと思っています。
「怒りや憎しみなどのネガティブな感情に蓋をしない」ということは心理的ケアの基本となる前提ですが、カルト被害者の方たちにとってはそれが非常に実行困難なことになっています。
カルトの教義によって徹底して避けるように誘導されたためですが、そのようにしてこれまで慣れることができなかった自らの感情についての体験を、現実そのものではない、一段階離れた創作物・フィクションの場であえて体験するようにすることは、臨床心理用語で言えば一種の「暴露療法」になっているとも言えます。
おそらくカルト側が外部の創作物に信者が触れることを激しく嫌うのも、単に「外の社会の情報を知らせたくない」だけと言うよりは、今説明したように信者に「自分」を形成されて、その結果として教団側が支配力を発揮できなくなってしまう事態を恐れているからなのではないでしょうか。
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