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映画『あのこは貴族』感想 静謐なシスターフッド映画


 静かでも、強い主張を感じる作品。映画『あのこは貴族』感想です。


 東京で、良家の娘として育った榛原華子(門脇麦)。20代後半を迎えた華子は、婚約していた恋人と破局したことで、初めて人生の道を見失っていた。お見合いや紹介を繰り返す悪戦苦闘の甲斐あって、ハンサムな弁護士で政治家の家系でもある青木幸一郎(高良健吾)と出会い、婚約に至る。だが、幸一郎の携帯に、「時岡美紀」という女性から連絡が入っているのを見つけてしまう。
 富山県で生まれ育った時岡美紀(水原希子)は、猛勉強の末、東京の名門大学に入学して上京するが、学費が続かず中退。その後も東京にしがみ付くように生きる日々を送っている女性だった。
 上流階級の檻で育った華子、地方の閉塞と都会の貧しさに纏わり付かれる美紀。2人の女性の僅かな邂逅が、大きな変化をもたらす…という物語。


 『ここは退屈迎えに来て』『アズミ・ハルコは行方不明』などで知られる作家、山内マリコの同名小説を原作として、岨手由貴子が脚本・監督を手掛けた作品。原作本も、岨手監督の他作品も鑑賞したことはありませんでしたが、なかなかの高評価であるのを目にして、観てきました。

 女性差別、階級差別といったものを扱う作品は、今や世界的なトレンドとなっていますが、この作品もそれに連なるものだと思います。ただ、その表現の仕方は非常に奥ゆかしいというか、いかにも邦画的な感性で撮られているのが特徴ですね。
 エンタメ的な魅せ方をする映画なら、抑圧された被差別者側が結託して、差別した奴らをブチのめす痛快劇になるところですが、この作品は非常に繊細でわずかな変化を少しずつ見せていくことで、抑圧からの解放を表現していると思います。

 あらすじだけを見ると、華子と美紀という2人の女性主人公の出会いの物語なんですけど、この2人の道が重なるのは、ほんの僅かなんですよね。その僅かな時間だけで、お互いの本質的な部分に触れることで、ごくごく静かな「シスターフッド」が描かれています。
 美紀の周囲では、「女なら料理くらいしろ」という古い考えの父親や、性的消費する男性の視点など、品性の下劣さが描かれていますが、華子のいる世界での会話も、とても上品な言葉遣いだけど、内容は他人を値踏みする下劣なものであるのが描かれています。
 階級の違いを描くと同時に、2人とも決して良いとはいえない状況にあるということなんですね。上流階級が搾取する身分で、下流階級が虐げられる被害者という単純構造ではなく、どちらの世界にもそれぞれで苦難があるという描き方も現代的だと感じます。

 そして差別する側の描写も、さほど悪役的な描写をするわけではなく、あくまで無意識の差別意識という形に止めているように思えました。ただ、その「無意識の差別」という方が、より人間の醜悪さを本質的なものにしているように感じられて、とても効果的に胸糞悪くなる描写になっているように思えます。
 この醜悪さの描き方が実に巧み過ぎて、本当に気分悪くなるんですよね。ホラー映画とかで殺される予定のキャラが、自分勝手な行動をとるパターンがありますが、あれがずっと続いている感じで、観ている間、「早く誰か死なねーかな」とか思ってしまいました。もちろん、そういう映画ではないんですけど。

 華子役の門脇麦さんと、美紀役の水原希子さんが、「観る前は配役が逆だと思っていた」という感想が多いみたいですが、水原希子さんのバイタリティ溢れる力強い瞳は、貧困学生からキャリアウーマンへと駆け上がる美紀というキャラクターにピッタリだと思います。
 門脇麦さんの演技も絶妙で、「大人しいけれど芯のある女性」というなら、よくある主人公像だと思うんですけど、華子という人物は、大人しくて芯もない女性として登場しているんですね。その、ふわふわしたお嬢様が、美紀の生き方を目の当たりにすることで、段々と芯が生まれていくという微妙な変化をしっかりと理解して演じています。こちらもベストキャストで良い演技をされていたと思います。

 ラストの華子と幸太郎が交わす視線。初めて対等な立場で交わされた視線という意味だと解釈しましたが、映画的なカタルシスを感じさせない、非常に現実的な結末だと思いますね。
 ガッツリと胸糞悪くなっている状態では、もう少しだけ華々しい結末を期待してしまいますが、まあ『マッドマックス』ではないので、フュリオサが女たちとイモータン・ジョーに反旗を翻すような展開はあり得ないわけですよね。

 つまりは、階級の違いや、男女の性差などを対立させてはいますけど、その違いをそのまま敵対構造にはしていないということなんだと思います。華子の親友である逸子(石橋静河)が、女同士の分断を否定する台詞がありましたが、その他の違いに対しても、敵対するものではないと物語で描いているんだと感じました。
 相手に吠え面をかかせたいわけではなく、まずは対等の位置に立つということが、男女関係なく、人と人が付き合う上での当然ということなんだと思います。責め立てる形ではないフェミニズム主張というのは正しいと感じます。

 そんなに小さい声での主張では変化はしないという考えもあるとは思いますが、そういう声に耳を貸さない層は、そもそもこういう作品を観ないでしょうね。少しずつの意識の変化が大事なわけで、男性の端くれとして、自戒する気持ちになれる作品でした。


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