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弱者とは、誰が定義するものか。

先日の人事面談での出来事。
「私の職種って、弱い立場にある(弱者だ)と思うんですよね」と会話の流れから、伝えてみた。

「僕はそうは思わない」と、上司である面談相手から即答された。

おっと、そう来たか・・・。
不毛な会話を続ける気もなく、そのまま黙り込んだ。

何を前提として、「弱者」とするかしないか、じっくり対話してみるほかはない。けれど、「強者」側に”そうは思わない”と言われてしまうと、どう話を進めたらよいのか、一瞬頭は真っ白になって、黙り込む選択をとった。

人は、それぞれ自分のフィルター(価値観)を通して世間/世界をみている。どれだけ他者の立場に立って、とか、想像して…といったところで、自分フィルターを超えて世界を捉えることは不可能。。。

そんなことは、わかりきっている。
わかりきっているからこそ、自分が見ている世界、価値観が全てではないことを忘れないでいたい。
相手が何を発しようとしているのか、特に、「弱い立場」だと思っている人に対して、耳を傾ける姿勢を持つことは、コミュニケーションの分断を生まないために、不可欠なものだと思う。

弱者から強者への情報発信は、構造上とても難しい。
被抑圧と抑圧の関係性の中では、対等なコミュニケーションは発生しがたいのである。その大前提をふまえたうえで、もっと世界がやさしくなるには、どうしたら良いんだろうなぁ。。。

1986年に男女雇用機会均等法が施行されてからも、総合職、一般職で男女を区分する「コース別採用」という極めてグレーな仕組みが長く続いてきた中で、一般職を選択せざるを得なかった女性を、果たして「弱者」と呼ぶのは見当違いだろうか。管理職になれないなどキャリアアップに制限が掛かり、研修機会や各種待遇に総合職との差がある中でも、「女性活躍・高度活用」の大義名分のもとに、さらなる能力発揮を強いられてきた一般職を「弱者」と呼ぶのは、乱暴すぎるのだろうか。

合理的理由なく「総合職」「一般職」とラベルを貼られてきた中での社会人生活。真の意味で「自分らしく」働く選択とは程遠い現実だったようにも思う。そんな会社を選んだのも自分自身であることは間違いないが、まさか、フツフツと思いを抱えたまま20年近くも経過するとは思いもしなかった。
いや、今あたり前とされているシステムに疑問を抱く世代がそれなりのポジションに就き始める時に、社会は大きく変わるんだろうな、そこまで我慢するしかないよな、とも思っていた。

ガラリと景色が変わる瞬間に立ち会いたい。
ガラリと景色を変える一人でありたい。

数か月前に下書きになったままの投稿に目が留まって書き足してみた。
わたしのキャリアって、会社の旧システムが変わろうとする今からが本番な気がしている。いや、旧システムを加速度的に変えるところに、何ができるのか真剣に考えたいし、取り組んでいきたい。

「20年経ったら変わるんじゃない?」と上司と会話した時から、そろそろ20年。少しだけ前倒しに、ガラリと変わる瞬間に立ち会えるかもしれない。

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