ウガンダExpoで感じた感動と、ザワリ
5月の末にTourism系のExpoが開催され、
さまざまな国のさまざまな団体から出展があり、
3日間盛大にイベントが開催された。
Munyonyo Districtの
Speke Resort Hotelという、
G77サミットやお偉いさんたちが使うようなかなり良いホテルで開催されたため、ものすごく華々しく盛大なイベントであった。
驚いたのは出展した各団体の意識の高さである。
期限通りにブースや陳列品を準備して置くことは勿論、ビジターへの対応の仕方など
本当に「プロ」としての振る舞いで、
普段私が知るウガンダとは全く違う世界であった。
ウガンダ人にもここまでのことができるのか
なんて驚いてしまった。(失礼)
普段彼らは一体どこにいるというのだ、まったく。
おしゃれな内装やデザイン、
ケータリングサービス。
素敵な制服を着たスタッフに洗練されている空間。
やはりどこにおいても、
できる人はちゃんとできるんだろう。
頭がいい人は頭が良いし、
教養がある人は教養がある。
センスがある人にはセンスがあるし、
仕事ができる人は仕事ができる。
そういうウガンダ人の可能性に感嘆した。
日本では全体としての平均レベルが高い印象がある(教養にしてもマナーにしても)が、
ウガンダではできる人とできない人の差がかなり大きいのだろうなと感じる。
一方、ざわり、と感じた部分もあった。
エキスポにはいくつかの地方民族のような方も招待されていて、ローカル部族の踊りや楽器、生活様式が披露されていた。
一度音楽が鳴り始めれば集まる観衆。
みんな、特にムズング(外国客)は物珍しい光景に写真やビデオを撮っている。
かく言う私も写真やビデオを撮っているのだが、
はたと自分を客観的に捉えてみるとこの気持ち悪さにゾクっとしたのである。
ウガンダという国、に限らずかもしれないが、
こうした発展途上国においてでも近年経済成長や技術発展は凄まじい。
特に首都では多くの車やバイクが羅列し、高いビルが立ち並ぶ。
スーツで歩き高級車を使い、あくせく動く人。
その光景はもはや我々の古い想像の中にあるアフリカではない。
勿論今でも地方によって伝統があるのは確かで、
伝統的なダンス、衣装、イベントなど残っているのだが、以前よりも確実に世の中は「近代化」していて、そのような伝統に触れる機会は、減っているだろうと思われる。
しかし他所の人が勝手に求め想像するいわゆるアフリカはその伝統であり、昔ながらの暮らしであり、それに魅力を感じ、そこに対してもかなりお金が動くのだろう。
この時代においてもはや実際のウガンダでは、
毎日毎日伝統的に昔ながらのスタイルで過ごしている人は少ない。
ほぼ全ての人が洋服を着て、携帯電話を持ち、
車やバイクを運転し、電気水道に頼る。
都会に出て農業以外の仕事をしてそれなりに今らしい生活を送る。
現実的に考えて、「伝統」的な暮らしは
便利でなければ生産性もない。
Expoのような大型のイベントだったり
人目に触れお金が動くチャンスがある時。
正式な行事がある時などの
限られた時にしか披露しない。
いわゆる日本の、
「浴衣や着物が日本の伝統とされているが、実際の日常生活ではほとんど着る人がおらず、夏祭りや結婚式、成人式、卒業式のようなイベント時のみである」や、
「長年続く年に1回の有名なお祭りに地方や外国から多くの人が見学に訪れる」
ような状態。
外国人はもちろん、同じ日本人でもやはり「日本の伝統といえば」を求めてくるし、それに対してお金が動く。京都や伝統的な行事に観光客が絶えないのはそういう需要があるからだろう。
伝統が商品化、ビジネス化している。
それと同じ印象を受けた。
そうしていかなければ存続していけないのだろう。
ウガンダも、日本の後を少しずつ追いかけている。
そして我々観光客も、
知らず知らずそれに加担してしまっている。
旅行として洗練されたサービスや発展を求めながら伝統にも触れたい、そうであって欲しいなど、勝手なものだ。
伝統を求めるということは彼らに今のままの生活を強要するということにもなりうる。
そういうこと(伝統に残り、経済成長を望まない自然のままの生活、現在と乖離した生活)を求めることになる。
自分は責任を取る気も深く関わる気もよほどないくせに「らしさ」「っぽさ」を求めるなんて。
だが、伝統に関する知的好奇心や興味が湧くのも、分かるのである。
それが自分と異なるものであれば、なおさら。
この、発展と伝統、進展と維持の相反する2つの差がどんどんどんどん広がているのだろう。
人レベルでも、文化レベルでも。
ビジネスや技術が発展していくにつれ、
貧富の差は広がり、人の格差は広がり、
ローカル(伝統)を持続させるのは難しくなっていくだろう。
今はまだ日本ほど伝統の継承の問題があるわけではなさそうだが、いずれ、それも本格化していくのではないかと思う。
ウガンダでも伝統が失われて行くことや後継者不足に苦慮する時が来るのかもしれない。
ただ、伝統が失われていくことや商品化してしまうことは悪ではないと個人的には思う。
それも時代の流れの必然であり致し方ない部分がある。
今までも2000年以上、
そうやって歴史は生まれ消えていったのである。
昔や過去、伝統に惹かれるのは当然ながら、
それは必ずしも
=「今までの伝統は無くしてはならない、失わせたくない」
ではない。
それとこれとは切り離されるべきだと思う。
こう思うことは個人の自由でありその考え方も素晴らしく必要なものではあるが、
極論別に伝統がなくなったところで、生きてはいける。法で裁かれるわけでもないし誰に咎められる言われも無い。
悲しいかな歴史の一部になるだけである。
今から2000年後、(仮にもしまだ人類が存在し子孫が残っているとすれば)
我らの現代スタイルすらどうせ過去のことで伝統になったりするのだろう。
途上国としてイメージの中にあった
「貧しく支援を必要とするアフリカ」は、
驚くべき速度でスタイルを変え、発展し、新しい姿へと変化している。
これからもますます、我々の知らないアフリカになって行くのだろう。
きっとアフリカはアフリカらしくなくなっていく。
日本だっていつか追い越されてしまうのかもしれない。
日本はどこまで上の立場でいられるのだろう。
ジャパンブランドを保ち続けられるのだろう。
世界はどのように変わっていくのだろう。
期待と不安と、
危機感と緊張感と。
ざわり。
あまりにも多くのものが次々と産まれ消えていくこの世界で今日も私たちは生きていく。
世の中の動きや思想に翻弄されながら。
歳をとるにつれ、手に入れられるものも増えれば
手放さなければならないものも増えてきた。
自分はどこでどんな風に生きていたいのか?
誰とどんなことに関わっていきたいのか?
ウガンダにいるとほとほとよく考えさせられる。
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