eスポーツが永久にオリンピック競技になれない本質的理由

京都服飾文化研究財団(ワコールのメセナ活動)の研究誌『Fashion Talks...』12号に「eスポーツから考える──身体、技術、コミュニケーションの現在と未来」という論考を寄稿しました。私にとって初めてのeスポーツ論です。今は冊子媒体だけですが、そのうちオンラインでも公開される予定です。

そこではeスポーツの起源や基本的理論、国際組織や大会などについて概観しましたが(ご興味があればぜひ本誌をお読みください)最終章で取り上げた「eスポーツがこのままでは永久にオリンピック競技になれない本質的理由」について、ここで要約風にご説明したいと思います。

eスポーツがオリンピック競技として採用されるための最大のハードルは「暴力性」と「組織(制度)的基盤の脆弱さ」にあると、これまで言われてきました。

前者については、「殺戮ゲームはオリンピックの価値に矛盾する」「[オリンピック理念は]暴力、爆発、殺戮に満ちたビデオゲームにはあわない」といったトーマス・バッハ会長の発言がしばしば引かれます。後者は、日本のeスポーツ団体が日本オリンピック委員会(JOC)に加盟できていない現状からも理解できます。オリンピック・スポーツには、その種目の競技者や教育者を束ねる統一的団体が国内レベルおよび国際レベルで必要なのですが、eスポーツはまだその部分が整っていません(もちろん、eスポーツ界のここ20年間の努力と達成にはめざましいものがありますが)。

しかし問題はそれだけではない、というのがここでのポイントです。ゲームの「内容」や競技を取り巻く「制度」とは別の次元で、コンピュータゲームには本質的にスポーツと相容れない点がある、ということです。この問題を手際よく整理しているのが、イギリスのスポーツ哲学者ジム・パリーの論文「eスポーツはスポーツではない」(2019年)です。

https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/17511321.2018.1489419

パリーは、スポーツを「人間の身体的技能の制度化され、規則に支配された競争」と定義します(なお彼は「オリンピック・スポーツ」を想定して「スポーツ」の語を用いると宣言してから議論を始めますが、その是非はここでは問いません)。さて、この定義には六つの要素(人間/身体的/技能/競争/規則に支配された/制度化された)が含まれています。つまりそれを一つでも欠くと(オリンピック・)スポーツではない、ということになります。そして実際、eスポーツはこのうちの四つの要素(人間/身体的/技能/制度化された)を満たしていないとパリーはいいます(eスポーツが「規則に支配された競争である」ことは彼も認めています)。

(1)スポーツは「人間同士の競争」である

スポーツは「人間同士の競争」であり、そのためボート、自動車などの、いわゆる「モータースポーツ(原動機付きの乗り物を使うスポーツ)」はオリンピック競技には含まれない。またロボットコンテストは「機械同士」の競争であって「人間同士」の競争ではない、よってそれも「スポーツ」ではない。ロボットの操縦者は「直接的競争者」ではなく「想像的な遠隔操作者」にすぎない。同様の理由から、eスポーツも「人間の」スポーツとは呼べない。

(2)スポーツは「身体的」である

プレイヤーが行う身体的動作がゲームの結果に直接に結び付くのがスポーツである。この観点からチェスはスポーツではない(パリーはマインドスポーツに否定的)。たしかにチェスプレイヤーは手でコマを動かすが、しかしその身体動作にこの競技の本質はない。手を使わずに口頭の指示によってコマを動かすことは可能だし、またコマを動かす身体動作の熟練度がチェスというゲームの結果に結び付くことはない。この点、例えば射撃は違う。射撃は全身の運動を要求する(これは次のポイントとも関連)。そして実際、射撃はオリンピック・スポーツである。ジェイソン・ホルトの概念を借りれば、身体動作がゲームの結果に有意義に結び付くためには「行為が実行される領域」と「行為の結果が得られる領域」が一致しなければならない。従来のスポーツでは両者は一致しているが、eスポーツでは後者の領域が仮想空間であり、両者が乖離している。従ってeスポーツは「身体的」とはいえない。

(3)スポーツは「全身運動の技能」による

スポーツは人間の身体技能の発達と鍛錬を要求する。しかし、すべての身体活動がスポーツに該当するわけではなく、「技能習得の有意義な水準」を要求しない身体活動はそこから除外される。例えば(普通に)歩くことや食べること、基礎的反復訓練(腹筋や腕立て伏せなど)がそうである。それらの身体活動はスポーツにはならない(早食い競争は、競争にはなってもスポーツにはならない)。

またスポーツが要求する身体技能は「全身運動」である。射撃では体全体の制御が必要とされており、決して「手先の器用さ」だけが問われているのではない。これに対して、eスポーツが要求するボタンやレバーの操作は、手先の器用さの次元にとどまり、全身運動ではない。ガーデニングや楽器の演奏が「競争(コンテスト)」にはなっても「スポーツ競技」にはならないのと同様に、eスポーツもスポーツにはならない。

(4)スポーツは「制度化」を必要とする

すべてのスポーツは「規則(ルール)に支配された競争」であるが、その規則の正当性は「制度」によって保証される。ここでの「制度」とは端的にいえば、各競技の規則を制定し、その適正な運用を監督する団体や組織である。現にオリンピックに参加するすべてのスポーツ競技が、そうした団体や組織をもつ。しかしコンピュータゲームの規則はプログラムの中に「コード化」されているので、「中立的な第三者」がその妥当性を確認することができない。かりにゲームの開発者が、プログラムの中に、特定の国や選手を有利にするような仕組みを埋め込んだとしても、誰もそれに気付けない。ゲームの規則が一企業によって独占的に管理・運用されるような競技大会には、誰も参加したいと思わないだろう。そうならないための「制度」が必要なのだが、今のところeスポーツにその見通しはない。

(ところでパリーの論点から逸れるが、この点で重要な意味をもつのが「審判」の存在である。スポーツには審判が必要である(稀有な例外として、ゴルフには審判がいないが、ゴルフは現在オリンピック・スポーツではない)。「審判のジャッジが衆目にさらされる(審判のジャッジ自体が観客によってジャッジされる)」という構造が、スポーツを支える制度である(その意味では「観客」の存在も同様に重要だ)。他方「判定が自動化されている」つまり「審判が不要」なことが、これまでコンピュータゲームの「長所」と見なされてきたわけだが、そのことがかえって「eスポーツはスポーツではない」という主張を裏づけてしまうのは何とも皮肉である。)

このようにパリーの議論は、やや教条主義的なトーンがあるものの、「一般に浸透しているスポーツ観」をうまく概念化・言語化していると評価できます。「オリンピック・スポーツ」という既存のカテゴリー(権威・制度)に則るかたちで議論をしているため、スポーツ哲学としてはやや深みを欠きますが、しかしだからこそ、この議論は、eスポーツ界にとって「手強い論敵」になると思われます。というのも現在、世界中のeスポーツ関係者にとって、まさしくオリンピック・スポーツこそが(ほとんどそれのみが)関心事だろうと思われるからです。

何より深刻で絶望的なのは、これら四つの点は、あるいは「制度」はもしかしたら解決可能かもしれないので、それを除外した三つの点(人間/身体的/技能)は、コンピュータゲームの技術やメディアを構成する本質的条件であり、今後も「改善」される見通しがないことです。つまり、現在一般に浸透している「スポーツ観」が変わらない限り、そして最終的には国際オリンピック委員会(IOC)がスポーツ観を更新しない限り、eスポーツはこのままでは永久にオリンピック競技にはなれない、ということです。

したがって、もしも「eスポーツをオリンピック競技にしよう」と本気で考えるならば、「eスポーツそのものの活性化や普及、知名度向上」だけでなく、それと並行して両面作戦で、「従来のスポーツ観を変える」「新たなスポーツ理念を構築・提示する」活動もやっていかなければならないはずです(と、自分の仕事ではないので簡単に書いていますが)。そしてそれは実際に、初めて学術的に「eスポーツ」概念を定義・説明したとされるマイケル・ワグナーの「eスポーツの科学的意義について」(2006年)が目指していた方向性でもあります(この辺りも私の論考でふれています)。

ちなみに私は15年ほど前に、オリンピックの芸術競技(1912年から48年まで正式競技であった)を事例として、アートとスポーツの境界問題を考えたことがあります。

その私がまさかゲーム研究者となり、こうして再びオリンピックの問題に「再会」するとは当時は夢にも思いませんでしたが、そのときの知識や着眼が今回の論考にけっこう活きている気がします。こういうことがあるから人生おもしろいですね。もちろん「ファッション系学術誌のスポーツ特集」の原稿を私に依頼する、という編集サイドのご英断がなければ、こういう機会もありませんでしたので、ひたすら感謝です。