耽溺する肉聲、熟れたレイシを喰す 第10話

数日後の午後。勤務先の事務所の屋上にある長椅子に腰をかけて煙草を吸っていた。

吸い殻を落としては再び口元に寄せて吸いながら、空を見上げていた。縦軸に伸びていく巻積雲けんせきうんが藍染した水縹みはなだの色に馴染んで広がる。都内の空は何処にいても同じ顔で表情すら素っ気無いさまで居座る。未だに何となく肌寒く感じるが今の時期の風はやけに心地が良い。

そうこうしている内に休憩時間が終わりかけていたので、事務所に戻り作業の続きに取り掛かった。夕刻になり退勤しようとした時、専務に呼び止められたので机に向かうと、今日一日中顔色が優れないところがあったが何かよく無い事でもあるのかと尋ねられた。
同居している友人が急用で実家に帰省し、一人孤独に過ごしていると返答し、寂しさもあると思うが長引く事は無いからあまり落ち込むなと声をかけてくれた。

ナツトとの深い関係性は周囲には伏せている。"友人"というくくりがどうもしっくりと来ないところも感じるが、致し方無いのも途方に暮れてしまうので大まかに振る舞うしか無いのだ。

そんな彼は今何処で何をしているのだろうか。

何時もの様に働き何時もの様に飯を食い夜も眠れているのだろうか。まるで親御の様に彼の事を心配している。そういえば知人の所に居候すると言っていたが、本当は何処にいるのかと考えてしまう。もし今夜が勤務なら彼の働く場所に居る筈だ。私は電車で新宿に向かい彼の働く店に行って中に入った。
しかし、その姿は無く近くにいた従業員に声をかけたが、今日はシフトが入れ替わったので来ていないと聞いた。

ちょうどその奥に店主が居たので、詳しい話を聞こうとしたが、本人から私が訪ねてきたら何も伝えないでくれと口止めされているという。
せめて居場所だけでもとしつこく聞いてみたら、店主の妹夫婦の下で居候していると話してくれた。彼は元気かと聞くと相変わらずだと返答した。少しは安心した。迷惑をかけて済まないからその内お礼でもすると告げたが、其処まで気を遣わないでくれと言ってきた。

一時間後、自宅に着いて予め商店街で買ってきた出来合いの惣菜を数種と缶ビールで夕飯を済ませた。やがて深夜近くになり布団を敷いて中に入り仰向けになって目を瞑った。
しかし僅か十分もしない内に再び目を開いて横を向いてみた。何時も居る筈のナツトが居ない。この曖昧な気怠さは何だろうか。
いくら考えても直ぐに帰ってくる性分では無いと理解しているので、私も極力リクとは連絡を取らずにいた。

一週間が経ち、土曜日の午前中に一本の電話がかかってきた。相手はリクだった。画廊を営む知人から絵画をもらう事が出来たので私の自宅まで届けに行きたいと言ってきた。自分も時間を有り余しているので来ても良いと伝えると、その二時間後に彼は自宅に到着した。

「お邪魔して申し訳ない。良い絵が手に入ったんだ。貴方に受け取って欲しくてね」

彼を居間へ上がらせて、窓際の椅子に座らせた。淹れた珈琲を渡しひと口啜ると、覆った布を取り外して絵を見せてくれた。

「これは何の花?」
「バーベナという西洋の原産の花だよ。ナツトさんとお二人に合うかと思って選んだんだ」
「綺麗だな。花弁はなびらが小さいがこれだけ溢れる様に咲き誇っているのは、見ているこちらも気持ちが和むよ。」
「花言葉は魅力。あと家族の和合と呼ばれているんだ」
「家族?」
「ええ。お二人の話しを聞いて家族という言葉が当てはまるなって。」
「そうか。確かに十年来の付き合いになるしな。わざわざありがとう」
「あの、ナツトさんは仕事ですか?」
「実はさ……この間喧嘩して、彼奴は今知人の家に居るんだ」
「そんなに大喧嘩をしたんですか?」
「何時もの倍以上に口論してしまって。無意識に彼に手を出してしまった上、軽く野次を飛ばしてきたんだ。まあ、そのうち帰ってくるからあまり気にしないでくれ」
「まさか、僕の事が知られたんですか?」
「……半分は当たっている」
「其れなら今日はもう帰らないと。長居はしない、これでおいとまします」
「まだ、居てくれないか?」
「やめた方が良い。また後日連絡するからその時に話します」

彼が帰ろうと玄関先に靴を履いて出ようとした時、ドアが開いたので私も顔を出してみると、其処にはナツトが立っていた。
彼は何故リクが家に上がっているのか、怪訝けげんそうな表情で伺ってきた。絵画を渡しに来ただけだと伝えたが信用できないと言い、また二人で密会していたのかと言い放ち、階段を降りてアパートの外に出ようとしていた。私は後を追いかけていき声をかけた。

「淳哉……!」

彼は振り向いて虚な瞳で私を見つめていた。

「こういう時にだけ、本名で呼ぶなんてさ……卑怯だな」
「頼む。家に帰ってきてくれ。話せば納得できるよ」
「納得もクソもあるか。あの男に媚を売りたいのなら、思う存分明け暮れるまで楽しめば良いさ」

そう告げると再びナツトは背を向いて駅の方へ歩いて去っていった。


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