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海 (短編)

 少年は海を見ていた。

 上空をゆっくりと漂う無数の鉛色の雲。
 静かに打ち寄せては引く、淡く透き通った波。
 彼方の水平線に目をやると、空の鉛色と淡い海とが滲むようにぼやけていた。もはやそこに空と海との境は消えていた。

 今、彼を取り巻くものすべてが、精緻な調和をもって、彼に静謐な倦怠感を運んでいた。

 もうはるか太古の昔からここに居座り続けている気がする。そのくらい、この場所は彼に名状しがたい居心地の良さを与えていた。もはや彼にとってここは天上的とさえ言ってよかった。

  すべては無常である。
 しかし、今この目に映ずるすべてだけは、悠久の時を経た今も、そしてこの先もずっと変化しないのではないかと少年には思われた。

 彼はここのところ不眠がちであった。夜、瞼を閉じると、得体の知れない何かが彼を捕らえて離さないのである。それが一体何なのか、彼には全くわからなかった。
 不眠の次の朝はいつも透明である。
 少年はこの感覚が好きであった。何も考えることができない、この感覚だけが唯一彼を生かしてくれているような、そんな錯覚に陥った。毎晩の恐怖と不安とは裏腹に、朝は彼に幸福を与えた。
 
 この日も彼は昨晩一睡もできずに海に来た。
 透明な感覚に包まれて、少しばかりの幸福と夜があけたことの安心とを感じながら、海を見ていた。
 
 彼にとって海とは永遠の時間が宿る場所であった。
 海には、彼が知り得ない過去も未来もあるように思われた。
 眺めれば眺めるほど、まるで自分の起源に触れることができるような錯覚に陥った。いや、錯覚ではなく本当に可能かもしれない、と彼は彼の青い感覚でそう思っていた。

 微睡みそうになる少年。
 しかし不意に自身のそばに気配を感じた。
 
 ふと隣に目をやると、一人の老人がやはり少年と同じくじっと海を見つめていた。
 自分以外の人間がここに現れるなんて、と歪んだ独占欲と好奇心とをもって、少年は老人を見た。
 
  雪のような髪の白、顔に刻まれた無数の皺、腕に透けて見える筋と骨。
 老人の肉体に生じているすべての現象が、その男の老いを美しくたたえていた。
 少年はその老人の体に、幾年もの歳月を見た。
 時折その老人は咳払いをした。
 老人特有の浅い呼吸も彼の耳に届いた。
 しかしそのような生理現象ですらも、老人がここに存在しているという確証を与えるために必要な条件であるように思われた。咳払いも呼吸音もノイズではなく一層彼の存在感を引き立てる旋律となって存在していた。
 
 その老人の出現は、少年の眼前に広がる光景にさらなる美しさを加えた。


 老人は、海を見ながらゆっくりとまばたきをはじめた。
 
 まるで眼前の光景を脳裏に焼きつけるかのように、ゆっくりと、しかし絶え間なくそれは続けられた。

  老人のまなざしはとても穏やかだった。
 まるで全てを包み込むかのようなその目には、深い哲学と慈悲とが宿っているように感じられた。
 芸術家が色で思索するように、数学者が記号で世界を探求するかのように、老人は老人のやり方でこの世界を観察し、理解していた。
 
 その光景は一幅の絵のようだった。
 この老人の行為がこの世界においては絶対的な真であるように思われた。

 少年の鋭い審美眼もこれに呼応した。
 少年も老人と同じくまばたきをはじめた。

 海を見る。

 まぶたをゆっくりと下ろす。

 真っ暗な視界が現れる。

 海を見る。・・・

 何度繰り返したことだろう。
 少年の目の中は、淡い光と鮮明な闇とが交錯して、彼に混乱をもたらした。
 海はどこにあるのだろう。
 老人はどこに居るのだろう。
 もはや彼にとって視覚からの情報などあてにならなかった。
 確かにあるのは、ただ自分が存在しているという感覚だけである。
 いつの間にか咳払いも呼吸音も消えていた。


 不意に、彼の名を呼ぶ老人の声が脳内にこだました。
 天上的なその不思議な声に、少年はNostalgic を感じた。

 目を開けた。
 そこにはただ淡い闇が広がっていた。
 感じるのは何かの鼓動と、あたたかい水の感触だけであった。
 何が起きているのか、少年にはまったくわからなかった。
 しかし、彼は不思議と安堵感に包まれていた。
 体にあたるあたたかな波。
 ああ、これは羊水か。

 何者かの体内に宿された少年は今、少年ではない。




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