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ヘルマン・ヘッセ著 「デミアン」書評

新潮文庫から出版されている
ヘルマン・ヘッセ著 高橋健二訳の
「デミアン」を読んでみたので、あらすじと感想を載せます。



この作品「自分とは何か」という自己探求が主なテーマだと思います。
名作だとは思いますが、抽象的なテーマが最後まで貫かれているので、結構読むのに骨が折れました。

※ネタバレ含む

あらすじ

ラテン語学校に通う少年シンクレールは、親兄妹に愛され、善良で穏やかな家庭で育ってきた。

しかし、シンクレールは不良少年フランツ・クローマーの手下の一人であり、彼を大変恐れていた。シンクレールはクローマーに睨まれないために、でっちあげた窃盗をうちあけ、自分の不良ぶりをアピールする。

すると、クローマーから窃盗を暴露すると脅迫され、その日からシンクレールは支配され続けることになる。しかし、友人のデミアンが、苦しんでいるシンクレールを魔の手から救い出す。

シンクレールは道徳的で正しい「明るい世界」と、目を背けてきた性的で世俗的な「暗い世界」のはざまで苦しんでいたが、デミアンは自分自身の内部の欲求に耳を傾け「暗い世界」にも目を向けるように助言する。

少年塾に入るため故郷を離れたシンクレールは、明暗二つの世界の中で悩み、酒に溺れる日々が続き、退学一歩手前になるまで落ちぶれてしまう。しかし、シンクレールは道でばったりあった美しい女性に惹きつけられ、その女性への美しさや愛を礼拝することで、神聖な世界にのめり込み、崩壊した生活から抜け出そうとする。

また、デミアンとの偶然の再会により、シンクレールは内部の世界に一層のめり込み、放蕩生活から抜け出した。

ある日、教会のオルガン奏者のピストリーウスとの出会いにより自己の探究は、さらに深まることになる。

ピストーリウスは彼に、内部の魂の中の声は永久普遍的であり、この声の探求こそが人間を人間たらしめ、自分自身への道に通じていると説く。しかし、シンクレールは、その思想を説いている本人の自己探求がともなっていない点を指摘すると、二人の友情は崩れ、疎遠になってしまう。

学校を卒業し、大学へ入学したシンクレールは街中で偶然デミアンに再会し、家に招待される。そこでデミアンの母、エヴァ夫人と出会う。

以前から夢の中で出会い、憧れ、求め続けていた女神的な存在と、エヴァ夫人の姿が全く重なったため、彼はエヴァ夫人を崇め、慕うようになる。

デミアンの家に通う日々が続く中に、ロシアとの戦争が始まる知らせが入り、デミアンとシンクレールは出征することを決める。

この戦争を腐敗した精神が蔓延るヨーロッパの崩壊と新しい世界の誕生に結びつけたのである。戦場で致命傷を負ったシンクレールは自分を導いてきたデミアンが自分の姿に重なることに気づき、すなわち自己の道への先導者は自分自身であることを悟る。

感想文

世俗の問題と、内面の問題の隔たりに関して悩むことは思春期には誰しもあるだろうけど、大人になるにつれて「長いものには巻かれろ」の精神で内面の問題に向き合うことはほぼなくなる。

それは、内面の問題に目を背ける方が楽だからである。

しかし、ピストーリウスは自己探求こそが人間たらしめるもので、そうでない人間は、虫ケラとなんの違いもないと説いている。

そのピストーリウス自身もその道を究められなかったし、シンクレールも戦地で瀕死になってやっと真理に辿り着いた点から、内面の問題と向き合い続けることがどれだけ困難であるか恐れ多くなってしまった。

普段の生活が過多な情報と仕事に埋め尽くされている私たちはなおさらである。

シンクレールは神的なものと悪魔的なものを結合する象徴であるアプラクサスや、夢の中で出会い思慕していた「大いなる母」への信仰によって世俗に埋没しないで済んだのだと思う。

神的なものへの「信仰」が、内面の問題に向き合う支えとなると、信仰する対象を持たない私たち日本人はいかにして、自己を保てば良いのかという問題になる。これに関しては私は明確な答えを持たない。

ただ、一方で作中で展開されている世界観は、あまりに世俗とかけ離れすぎているようにも感じた。自己の道を究める一方で、世俗とも折り合いをつけて過ごしてくことが求められるわたしたちからは少し浮世離れしている印象であった。

おわり

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