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フランス・ギャルの人生〜「夢見るシャンソン人形」のその後〜【簡略版】


 まずは、簡単にフランス・ギャルの経歴を「主にアイドル時代以降に重点を置いて」まとめたいと思います。これは簡易版であり、後で詳しい記事を追加して補足していく予定です。




①生い立ちと「アイドル」としての成功

1963年、デビューしたばかりの頃のギャル。
60年も前の女の子とは思えない写真だ。
(Photo by Francois Pages/Paris Match via Getty Images)

 日本でもヒットした「夢見るシャンソン人形」で有名なフランス人歌手、France Gall(フランス・ギャル)は1947年パリ生まれ。ちなみに本名はイザベルで、フランスは芸名だ。父はシャルル・アズナブールやエディット・ピアフ等、人気シャンソン歌手への提供曲で有名な作詞家のロベール・ギャル。優しい両親と双子の兄に囲まれ、「バブー」という愛称の下、イザベル・ギャルは溺愛されて育ったそうだ。いわゆるブルジョワのお嬢様といったところだろうか。

 イザベルは父や兄達の影響で幼い頃から音楽に親しみ、ピアノやギター等の演奏も習得していた。同時に大変活発な少女で、サッカーも得意だったそうだ。

 そんな彼女は父の後援もあり、1963年に"Ne sois pas si bête"(恋のお返し)で歌手デビュー。この時弱冠16歳だった。フランス・ギャルの芸名が生まれたのもこの時だ。(デビュー当時はこの芸名を泣くほど嫌がったらしい…)

 "Ne sois pas si bête"(1963)
 「恋のお返し」
(原題は「おバカさんにならないで」「しっかりしなさいよ」くらいの意)
アメリカ楽曲のカバー。この曲がいきなりヒットし、華々しくデビューを飾った。

 その後父の友人でもあったSerge Gainsbourg(セルジュ・ゲンスブール)に多くの曲を提供してもらい、人気アイドルへの階段を順調に昇っていく。この頃のギャルは若々しく元気な歌声と可憐な容姿がウリの典型的「フレンチロリータアイドル」。今見ても少女漫画から飛び出してきたような容姿が本当に可愛らしいし、決して歌がとても上手いとはいえないものの、独特の歌声が不思議とクセになります。

 "N'écoutez pas les idoles"(1964)
 「アイドルばかり聴かないで」
アイドルのギャルに「アイドルの曲ばかり聞かないで私を構って!」と歌わせている、なんとも皮肉な内容の歌詞。ゲンスブール作詞作曲。

 そして1965年、ゲンスブール作の"Poupée de cire, poupée de son"(夢見るシャンソン人形)で出場したユーロビジョンコンテストで優勝し、フランス国内のみならず世界的に有名になる。日本にもその影響は及び、1966年には来日公演も行なった。(ビートルズの初来日とほぼ同時期)また、この「夢見るシャンソン人形」"Un prince charment"(すてきな王子様)は本人歌唱の日本語版レコードまで発売された。当時の日本での人気ぶりは凄まじかったようで、「私の髪を切ろうとハサミを持った男の子達がつきまとってきたのよ!」と、後にギャルは語っている。

 "Poupée de cire, poupée de son"(1965)
 「夢見るシャンソン人形」
(原題は「蝋人形、オガクズ人形」)
日本でギャルといえばこの曲。これも実は皮肉たっぷりの歌詞で、全然「夢見る」どころではない。

 しかしその後、残念なことにギャルのアイドルとしての人気は次第に低迷していき、1967~68年頃には彼女の曲はヒットチャートから姿を消してしまう。

 有名なエピソードがいくつかあるのだが、簡単に言うと「カワイイ顔してエゲツナイことを歌う女の子」を演じされられていたのがギャルのアイドル時代。特にゲンスブールの書く曲は過激なものばかりで、話題にもなったがしばしば批判にも晒され、次第にスキャンダラスなイメージが纏わりつくようになってしまった。他にもデビューから在籍していたレコード会社(PHILIPS)を離れて移った新会社が数年で倒産したことや、そもそも当時のギャルが歌っていた「イエイエ」(60年代に若者の間で流行したフレンチポップスのこと)ブーム自体が去ってしまったこと等、いろいろな原因が人気低迷に繋がってしまったのではないかと推測される。


②人気低迷期と出逢い、そして復活

1977年ごろのギャル。「アイドル」から
「大人のシンガー」へと生まれ変わった。
 (Photo by Jean Claude Pierdet/INA via Getty Images)

 60年代末〜70年代初めにかけて、ギャルは不遇の時代を過ごした。年齢でいうとまだ20代前半の頃だ。 日本盤CDのライナーノーツには「1969年に一度引退していた」などと書かれているものが複数あるが、実際にはそうではない。この期間もレコードはたくさん出しているし、ドイツやイタリアで「出稼ぎ」のような活動も行っている。特にドイツでの活動は活発で、安定した人気もあったようだ。後年にはドイツ語の歌だけを集めたCDも発売されている。しかし、本国フランスではすっかり旬が過ぎてしまい、「落ち目の元人気アイドル歌手」のような扱いを受けていた。そんな中でも彼女はいろいろな曲を歌っているし、「シャンソン人形」の頃と比べるとずいぶん歌の技術も向上しているように感じるのだが、何を歌ってもダメな日々が続いたようだ。「次はポルノ映画への出演かしら?」等と冗談を言っていたこともあるそう…。

 そんな1973年のある日、偶然カーラジオから流れてきた曲がギャルの運命を変えることになる。それはギャルと同い歳のシンガーソングライター兼プロデューサーで、後にギャルの夫となる男性、Michel Berger(ミシェル・ベルジェ)の曲だった。

 これがその曲"Attends-moi"(僕を待ってて)。ベルジェが元恋人との失恋を歌ったバラードだ。

 この曲に強烈に惹かれ、「私が歌いたかったのはこれだ、この人に曲を書いてもらうしかない」と思ったギャルは、早速ベルジェに曲の提供を依頼する。最初は断られてしまうのだが、何度かやり取りしているうちに2人はやがて意気投合。翌1974年にはベルジェ作詞・作曲・プロデュースによる初のシングル"La déclaration d’amour"(愛の告白)が発売されることとなった。ギャルはこのシングルのために最後の預金を注ぎ込んだということだから、ベルジェとのタッグに賭ける気合いの凄さが伺える。

 "La déclaration d’amour"(1974)
 「愛の告白」

タイトルそのままのストレートなラブソング。ギャルにとっては記念すべき一曲、「第二のデビュー曲」ともいえる曲となった。この曲に関するエピソードはとてもロマンティック。別途紹介します。

 
 この曲が約7年ぶりにヒットし、ギャルは見事「ロリータアイドル」から「大人のシンガー」として復活を果たした。ギャルの歌唱はアイドル時代からガラリと変わって大人っぽくなり、ベルジェの作る先進的なメロディーともぴったりマッチしている。マニッシュなパンツスタイルに身を包み、作りものの「アイドル」としての歌ではなく等身大の感情を歌うギャルの姿は、当時多くの若者の心を掴んだようだ。

 以降、ギャルはベルジェの協力を得、共に音楽活動を行なっていくことになる。76年にはベルジェ作の最初のアルバム"France Gall"(邦題は「新しい愛のはじまり」である)がヒット。同年にはベルジェ作のTVミュージカル"Emilie ou la petite sirène 76"(エミリー、あるいは1976年の人魚姫)で共演。その直後に2人は結婚している。

 "Ça balance pas mal à Paris"(1976)
 「パリのスウィングも悪くない」

TVミュージカル"Emilie ou la petite sirène 76"より、エミリー(ヒロイン)役のギャルとプロデューサー役のベルジェのデュエット曲。結婚直前の2人が本当に幸せそうだ。


③黄金期と別れ

82年、コンサートの稽古に挑むギャル。
80年代こそがギャルの音楽活動が最も充実していた頃。
(Photo by JARNOUX Patrick/Paris Match via Getty Images)


 フランス・ギャルの本当の黄金期は1977〜88年頃と言って差し支えないと思う。77年にはアルバム"Dancing Disco"(ダンシング・ディスコ)がヒットし、ゴールドディスク賞を受賞した。

 "Musique"(1977)
 「2人だけのミュージック」

"Dancing Disco"よりシングルカットされた、 気分が上がるハッピーなディスコナンバー。曲も非常に良いし、この頃のギャルは幸せオーラが満載でとにかく美しい。

 79年にはベルジェ原案・作曲のロックオペラ"STARMANIA"(スターマニア)に出演。(作詞はリュック・プラモンドン氏)この「スターマニア」は何度もキャストを変えながら今でも上演され続け、フランスでは定番人気の演目となっている。来年の公演も決定しているそうだ。

 80年にはアルバム"Paris, France"(パリ、フランス)が”Dancing Disco”を上回る大ヒット。このアルバムからのシングルカット曲"Il jouait du piano debout"(彼は立ったままピアノを弾いていた)は2ヶ月間連続ヒットチャート1位を記録し、現在でもフランスではスタンダードナンバーになっている。

 "Il jouait du piano debout"(1980)
 「彼は立ったままピアノを弾いていた」
ベルジェとの共作時代の代表曲といえるヒットナンバー。「レコーディングの時はこの曲がここまでヒットするとは思わなかった」と、後にギャルは語っている。
 

 その後もギャルの出すレコードは安定してヒットし、コンサートも大賑わいだったようだ。徐々に音楽スタイルはポップスからロック色が強くなっている。87年のアルバム"Babacar"(ババカー)が最大のヒットで、100万枚以上のセールスを記録した。(この時40歳!)

 "Babacar"(1987)
 「ババカー(セネガルの赤ちゃん)」

ロック調のカッコいい曲だが、実はギャルがアフリカで出会った赤ちゃんの惨状を嘆く内容。このMVの監督は夫ベルジェだ。

 80年代に入ってから、夫妻はアフリカ諸国やカンボジアなどを訪問し、チャリティー活動にも力を注いでいる。また、私生活では2人の子どもも設けており、(78年、81年に誕生)ギャルは子育ての傍ら歌手活動を続けていた。

 まさに彼女の生活は公私共に幸せそのもの…といった感じだが、その幸せは長くは続かなかった。1992年、夫婦初のデュエットアルバム"Double jeu"(最後のデュエット)をリリースした直後、夫のベルジェが突然の心臓発作で亡くなってしまうのだ。享年44歳、あまりにも若すぎる死だ。

92年、スタジオでの夫妻
8月にベルジェが急逝したことにより、
予定していた2人でのコンサートツアーは中止になった
(Photo by Marianne Rosenstiehl/Corbis via Getty Images)


 さらにその後、ギャルの身にも乳がんが発覚する。しかし彼女は夫の死も自身の病も乗り越え、翌年には歌手活動を再開している。


④引退と晩年

2012年、晩年のギャル
(Photo by CANOVAS Alvaro/Contour by Getty Images)

 その後、ギャルは数枚のシングルとアルバムを出し、コンサートも何度か行っている。彼女はベルジェの死後も亡き夫の曲以外は歌わなかった。74年以降の自分のレパートリーと、ベルジェが歌った曲、ベルジェが他の歌手に提供した曲のみを、R&B調にアレンジを施したりして歌った。著名なシンガーソングライター(パスカル・オビスポ)からの楽曲提供すらも断ったそうだ。

 しかし1997年、幼い頃から先天性の難病で闘病していた長女のポーリーヌが僅か19歳で亡くなってしまう。(ギャル・ベルジェ夫妻はポーリーヌの病気を全くマスコミに明かしていなかったそうだ)

 ポーリーヌの死後、ギャルは歌手活動から完全に引退した。夫に次いで娘まで失ってしまった彼女の悲しみはどれほどのものだっただろうか…。壮絶すぎる人生である。

 その後、彼女は2000年ごろまでは全くメディアの前に姿を現さなかったようだが、それ以降はたまにTVや雑誌のインタビューに答えたり、特別番組に出演している。そして、晩年には全曲ベルジェの曲で構成されたジュークボックス・ミュージカル"RESISTE"(レジスト)を執筆、監督した。(「ギャルの最後の伴侶」といわれているブルック・ダヴィット氏との共作)2015年に初演となったこのミュージカルは連日大盛況であったそうだ。ギャル自身もナレーターとして出演しているそうです。

 ギャルは2018年1月に乳がんの再発で死去、享年70歳。夫のベルジェ、娘のポーリーヌとともにパリ・モンマルトル墓地に眠っている。



 以上、相当簡略化して書いたつもりだが、ギャルの一生はまさに波瀾万丈、事実は小説より奇なり、といった感じである。成功と挫折、運命の出会いと復活、大きな幸せと度重なる悲劇…。

 1980年代生まれの日本人である私は、残念ながらギャルの活躍をリアルタイムで見たことは一度もない。インターネットの記事を読んだり、曲を聴いたり、YouTubeに投稿された動画を見ることを通してしか、彼女について知ることはできない。にも関わらず、ギャルの歌に、人生に、こんなにも惹かれてしまうのは何故だろうか。自分でもよくわからないが、世代や国を越える不思議で強烈な魅力が彼女にはある気がしてならない。

 最後に"Résiste"(1981)
「レジスト(歯を食いしばれ!)」

遺作となってしまったミュージカルのタイトルにも使われた曲。「抗って、自分の存在を証明して、この利己主義な世界を拒んで…」現代の若者にも通じる普遍的なメッセージソングだ。


※曲のタイトルに関して、日本で発売されているものは当時の邦題を記載しております。


【参考】
英語版のwiki とても充実した内容です

本国フランスのファンの方による素晴らしいファンサイト

フランス語の伝記 電子書籍です


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