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ほぐす学び2022① - 「場」って何だ?

学びのコミュニティに飛び込んでみる

「ほぐす学び」って何なのよ

大学時代の先輩から誘っていただき「ほぐす学び2022」という3ヶ月間+αの学びコミュニティに参加することになりました。自分が今まで触ったことのない言葉、領域にみんなでどぼんと飛び込んで、対話して、これまでの常識を思い切りかき回して、それぞれが何かを感じ取っていこうという試みです。

大学院を出てはや半年、ビジネスとしての営み(経営)ではなく人としての根源的な営みについてもっと学びたいと思っていたタイミング。ただこの類の学びは、頭と心を思いっきり揺さぶられたいけど読書や独学では物足りなさそう、どうしたもんかと思っていたところに声をかけてもらい、正にこれ!おもしろそう!と即決したという経緯です。

学びほぐし - セーターをほどき自分の体型に合わせて編み直す作業

少しずつ一般化しつつある「学びほぐし(Unlearning)」という言葉。戦前ヘレン・ケラーが「学びほぐし」について哲学者の鶴見俊輔にこんなふうに話したそうです。

「私は大学でたくさんのことを学んだが,そのあとたくさん,学びほぐさなければならなかった。学び(ラーン),のちに学びほぐす(アンラーン)。「アンラーン」ということばは初めて聞いたが,意味はわかった。型通りにセーターを編み,ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された。/大学で学ぶ知識はむろん必要だ。しかし覚えただけでは役に立たない。それを学びほぐしたものが血となり肉となる」

鶴見俊輔.新しい風土記へ――鶴見俊輔座談.朝日新聞出版;2010.pp51-2.

Session1 - 社会科学における場の議論

著者クルト・レヴィンってこんな人

クルト・レヴィンは「社会心理学の父」と呼ばれるドイツ出身のユダヤ人研究者です(第二次大戦前にアメリカへ亡命しています)。彼が研究を始めたベルリンでは、当時「ゲシュタルト心理学」という最先端の心理学の研究が進んでいました。それ以前の心理学は、要素を分解していけば心は読み解けるという考え方でしたが、ゲシュタルト心理学は各要素を寄せ集めるのではなく、最初から「全体」を捉えて現状を認識するという考え方が特徴です。

レヴィンは「トポロジー心理学」を提唱、心理学の分野で大きな功績を残しました。トポロジーとは位相幾何学のこと。ド文系の私が端折ってざっくり表現すると、人間の心を数学とか科学とか物理とかで説明するぞ!という学問”人”と人を取り巻く”環境”の2つを分析して全体を理解しようという考え方です。で、その研究成果として書かれたのが今回の課題本である「社会科学における場の議論」というわけです。

大学教授も悶絶しちゃうスゴイ本

この中の一部を読んでくるというのが事前課題だったのですが、

  • もともと数学センスゼロ

  • 話の内容が難解すぎる

  • 訳文がわかりにくすぎる(日本語版初版は1956年)

という三重苦により、途中数え切れないくらい寝落ち。文字を追う(意味はわからない)のに精一杯で、なんとなーく「この文章って例えばこういうときのことを説明してるんじゃない?」と感じたところにハイライトを引くくらいしかできなくて、「これ、日本語ですよね・・・?涙」と自分の母語に対する読解力を疑い始める始末。

が、当日みんな異口同音に「全然わからんかった・・・」と言っていたので一安心(?)。何なら環境心理学専門の元大学教授も「今回改めて読み直したけどやっぱり難しいですね。ははは」と言っていたので、私の読解力の問題ではなかったようです。笑

対話してみて「場」について気づいたこと、感じたこと

「場」は何があるから「場」になりうるのか?

レヴィンの考え方では「全体(環境)」を捉えることが重要。「場」を時間的、物理的、感情的に区切るには、境界条件を決める(→外側となるフチが形成される)と、中にいる人の共通認識(ex 決められた時間や場所とか)の両方が必要そう。

「場」を現在に絞って捉えようとするのはなぜか?

これはメンバーの1人が挙げてくださった問いかけ。この問いと皆さんの考えを聞きながらふと浮かんだイメージは「ファミレスで売ってる虹色のじゃばら(←レインボースプリングという商品名らしい笑)」でした。理由は、一層ごとに区切れば「場」として捉えられるけれど、最新の「場」は過去からの重みや地面の凸凹によって位置が決まる連続性もあるなぁと思ったから。境界を作って前提を設けないと「場」の議論はできないと思ったので、「虹色のじゃばら」の絵が浮かんだときに「現在に絞る」という考え方は割としっくりきました。

ファミレスで売ってる虹色のじゃばら

メロディーと音符と音符にできない音

先生が「トポロジー心理学」についてメロディー(全体)と音符(個体)の関係性というわかりやすい例えで説明してくれて、イメージが広がった。音符なくしてメロディーはできないけれど、音符ひとつでは意味をなさないという話。でも音符は境界条件を作って音を無理やり分解したものであって、そのおかげで譜面で書き残し世界中どこでも音楽を表現することができる反面、すべての音を表現できなくする弊害も生まれる。古楽は音符で表せない音を表現しているんだよ、という新たな知識もいただく。

全体を通して感じたこと

人間は理解の範疇を超えるものをぶつけられると、知ってることを総動員させてどうにか自分との共通項を見つけようとする生き物なのかもしれない

10ページ読んで2〜3行何とか意味がわかる文章があればマシ、くらいの難解な本を読む(字面を追う、という表現の方が正しい)と、自分の知識で理解できる部分が嫌でも浮き上がってくる(だってその部分以外は外国語同然なのだ)。そうすると、本を読んでどんなことを感じた?という質問への対策としては、本を理解することは無意識に諦め、自分との共通項を見つけてそれを語るしかなくなる。そうして何とかひねくり出した気づきや印象的な部分は頭からそう簡単に消えないんだな、というのが今回の大きな気付き。

「場」とは何かをどうにか言語化する過程で「場」が形成されていく不思議な感覚

みんながそれぞれの経験と今回の本をどうにか結びつけて言語化を試み、それを受け取ることで自分の考えが広がっていくという、「自分の常識がほぐされていく」感覚を持つと同時に、その感覚はその「場」にいる人たち共通のもので、その共通認識によって「場」が形成されていくというこれまでにない体験をした。自分という「個」が「環境」から影響を受けつつ、自分という「個」の発言によって「環境」が影響されていくという…これが正にトポロジー心理学ってやつじゃない!?うおーすごい!

やっぱり私は「変なことを言う」タイプだった

「虹色のじゃばら」発言はファインプレーとも場を変な空気(?)にしてしまったとも取れる、私らしい発言だったなと改めて振り返る。笑
40年環境心理学を研究している先生が「次にこの本を書き直すときはじゃばらで表現したらもっとみんな理解できるようになると思う」とコメントしてくれて、個人的にはガッツポーズ。難解なモノを瞬間的にビジュアルでイメージするのが得意なのかもと気づけて、ちょっとうれしい。


次回はユング心理学、河合隼雄がテーマ。
ずっとちゃんと読んでみたい、学んでみたいと思ってたテーマなので今から楽しみ。もっともっとほぐされたいぞ!

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