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海の狼コクラン - “Almirante Cochrane”

 コクランは日本ではあまり馴染みがありませんが、かのホーンブロワーのモデルになっているという話もあります。

イギリス海軍へ

 トマス・コクラン Thomas Cochrane, 10th Earl of Dundonald は1775年12月14日スコットランドで生まれた。父アーチボルト Archibald Cochrane, 9th Earl of Dundonald (1748-1831) はダンドナルド伯爵の跡取り息子でありトマスが3歳のときに跡を継いだ。伯爵家の跡取りになったトマスは「コクラン卿 Lord Cochrane」と呼ばれることになる。父方の一族も母方の一族もともに軍人を輩出しておりコクランが軍人をめざしたのは必然の成り行きだった。

第10代ダンドナルド伯爵トマス・コクラン


 特に影響を与えたのは海軍軍人だった叔父アレクサンダー Sir Alexander Cochrane (1758-1832) で、コクランはアレクサンダーの紹介をうけ17歳で海軍に入隊する。なおアレクサンダーはのち海軍大将まで昇進し、その息子(従兄弟にあたる)トマス・ジョン Sir Thomas John Cochrane (1789-1872) は海軍元帥まで上り詰めた。まさに海軍一家といえよう。
 コクランが海軍に入隊した1793年にはすでにフランス革命戦争が始まっており、候補生となったコクランは叔父アレクサンダーが艦長をつとめるフリゲートに乗り組む。1796年正式に士官に任官し、1798年には地中海に派遣される。地中海で勤務していたコクランは階級が上になる同僚に敬意を払わなかったとして軍法会議にかけられる。この後もコクランは上官や同僚、部下とたびたび衝突することになり多くの敵を作った。セントヴィンセント岬海戦の英雄セントヴィンセント伯爵 John Jervis, 1st Earl of St Vincent (1735-1823) もそのひとりだった。
 1800年3月、コクランは少佐に昇進しスループ、スピーディー HMS Speedy の艦長に就任する。あるときスピーディーは接近してきたスペイン軍艦に捕獲されそうになったが艦内に疫病が発生しているとして逃走に成功した。またあるときは夜間敵艦が接近してきたためランタンを樽に乗せて流し、敵艦がその灯りを追っているあいだに逃げ切った。1801年2月、マルタ島にいたコクランは亡命していたフランス海軍士官と決闘することになる。相手のフランス士官は負傷したがコクランは無傷だった。
 その年の6月、スピーディーは自艦よりずっと大きいスペインのフリゲート、エル・ガモ El Gamo と遭遇する。コクランはスピーディーを敵艦に密着させて砲撃を避ける一方で、相手がスピーディーに乗り込んで捕獲するための襲撃隊 boarding party を準備すると素早く離れて甲板上に待機している襲撃隊に砲撃を加えてまた密着するということを繰り返し、最後には逆にエル・ガモに乗り込んで捕獲してしまった。互いの乗員数は54対319とほぼ6倍の違いがあったがそれを逆転してしまったのである。

エル・ガモの捕獲


 しかしその直後の7月3日、3隻のフランス戦列艦からなる艦隊に遭遇してスピーディーは捕獲されコクランは捕虜になってしまう。だが捕虜生活は短期間で終わった。数日後、捕虜交換があってコクランは解放される。8月には大佐に昇進した。エル・ガモを捕獲するという功績を立てた後、コクランの昇進が検討されたがそのあいだにコクラン本人が捕虜になってしまったためにいったん保留になっていた。しかしコクランは当時海軍大臣 First Lord of the Admiralty だったセントヴィンセント伯爵が妨害していたものと思い込んだ。のちのちコクランはセントヴィンセントを激しく攻撃して苦しめることになる。

ナポレオン戦争

 アミアンの和約のあとコクランは一時エジンバラ大学に通っていたが1803年にナポレオン戦争が始まると六等艦アラブ HMS Arab の艦長に任命される。コクランはアラブの状態に不満だったが修理を終えると勇躍して海に乗り出し、早速アメリカ商船に乗り込んで捕獲してしまう。イギリスとアメリカは正式には戦争状態にはなかったのでこの事件は国際問題となり、コクランのアラブはイギリス北端オークニー諸島の警備にまわされることになる。
 1804年末に五等艦パラス HMS Pallas の艦長に転任、アゾレス諸島付近で合計4隻のスペイン艦船を捕獲した。さらに1806年、五等艦インペリューズ HMS Imperieuse の艦長となったコクランはフランスの地中海沿岸を襲撃してまわった。この襲撃でフランスの暗号書を手に入れたコクランはこれを写し取った上でもとの場所に戻しておいた。暗号が盗まれていることにフランスが気づかないようにしたのである。コクランは沿岸設備を襲撃して停泊している艦船を捕獲する作戦を得意としていた。常に事前に綿密に計算して犠牲を最小限に抑え、効果を最大にすることをめざしていたという。被害に辟易したナポレオンがコクランのことを「海の狼 le loup des mers」と呼んだという話が伝わっている。
 1809年、コクランは火船を用いてロシュフォール港を襲撃した。この作戦は成功しフランス艦隊に多大の被害を与えたが、海峡艦隊司令長官のガンビア提督 James Gambier (1756-1833) がフランス艦隊を完全に撃滅する機会を逃したと非難した。この非難は軍法会議にまで発展して争われたが判決ではコクランの主張が退けられた。上官を公然と非難したコクランは前線指揮からはずされてしまう。

下院議員として

 1806年6月、コクランは下院議員に立候補した。当時は下院選挙の改革が議論されており、過激な改革論者だったコクランは敢えて腐敗選挙区で立候補したが落選する。腐敗選挙区では選挙区ごとに牛耳る有力者がおり議席を金で売っていたがコクランはなにも提供しなかったのである。しかし10月に再度選挙があったときには同じ選挙区で当選した。本人は当初否定したが10年後にひとりあたり10ギニー支払っていたことを認めている。
 翌年には別の(腐敗していない)選挙区に鞍替えして当選すると過激な改革主義者として活発に活動するとともに、海軍の腐敗を糾弾した。ガンビアとの法廷闘争にはそうした背景もあったのである。1810年、過激改革主義を掲げる同志の議員が議会と衝突して逮捕状が出され、抵抗して自宅に立て篭もったときにコクランは支援にかけつけた。しかしコクランは自分が得意とする海軍式のやり方で抵抗したので犠牲者を出してしまった。彼は一部の民衆には人気があったが、議会内で支持を広げることはできなかった。

 1814年2月21日の朝、ドーヴァーにひとりの男があらわれて驚くべきニュースを伝えた。フランス皇帝ナポレオンが殺されたというのだ。そしてこのニュースをロンドンに知らせてほしいと頼まれた現地当局はセマフォ通信でロンドンの海軍本部に伝達した。

セマフォ通信。腕の形で決められた内容を示し、狼煙のように次々と伝達する。画像はフランスの例。


 このニュースが伝えられたロンドンでは株式市場がたちまち暴騰した。しかしいつまで経っても確報が届かないためやがて株価は低下し始め、その日のうちに元の水準まで戻った。のちにこれは株価操作を狙った偽情報と断定され、捜査が始まった。容疑者のなかにはコクランが含まれていた。裁判でコクランはもちろん否定したが6月20日、12ヶ月の拘禁、1000ポンドの罰金、さらに首枷をつけて株式交換所の前で1時間晒されるという判決を言い渡される。
 判決をうけて海軍はコクランを免職とする。議会は除名を議決した。ジョージ摂政 George IV (1762-1830) はコクランに与えられていたバス勲爵士 Knight Commander of the Order of the Bath (KCB) を剥奪し、ウェストミンスター大聖堂に掲げられていたコクランの紋章旗は文字通りの意味で蹴り出された。
 しかしコクランは自分が除名されて欠員となったその補欠選挙に立候補して当選してしまう。圧倒的な人気をみた当局は暴動の恐れがあるとして株式交換所の前での首枷つき晒し刑の執行をとりやめる。これからまもなく1816年に首枷は偽証罪の場合に限られるとされ、1837年に廃止された。コクランは1818年までの議員任期を全うした。

チリ海軍

 ナポレオン戦争で本国が征服されてしまったスペイン領南米植民地では自活することを余儀なくされた。各植民地では在地の有力者がスペインから派遣されている総督の支配を脱して独立しようという動きを強め、各地で独立のための戦いが始まった。チリも例外ではなかった。独立の宣言、スペインの再征服、独立派の反攻を経てオイギンス Bernardo O’Higgins (1778-1842) とサンマルタン José de San Martin (1778-1850) が主導する政府が樹立されていた。しかし北に位置するペルーではスペイン総督が健在でチリへの脅威になっていた。ペルー・チリ間は陸上での交通は困難である。チリをペルーから防衛するためには海軍力が必須だった。初歩的な海軍が創設されたばかりのチリ海軍は経験に富んだ指導者を求めていた。白羽の矢が立てられたのがコクランだった。

当時のチリ周辺


 コクランとチリ海軍で働くことを望むイギリス海軍士官がバルパライソに到着したのは1818年11月28日のことである。コクランはチリ国籍を取得し海軍中将に任じられて新生チリ海軍の指揮をとることになった。まずコクランがとりかかったのはチリ海軍の再編である。生まれてまもないチリ海軍の現地出身者をイギリス人士官で置き換え、徹底的にイギリス式をたたきこんた。使用言語も英語にされた。かつてナポレオン戦争中にフランスに対して行なったようにペルー沿岸を襲撃してまわった。また当時スペイン王党派が支配していた南部ヴァルディヴィアを夜襲して陥落させた。ただしそのさらに南部のチロエ諸島の攻略は失敗に終わった。チロエ諸島の確保は1826年になる。

ヴァルディヴィアを夜襲するコクレーン隊


 1820年、サンマルタンは陸軍部隊をペルーに派遣してスペインの根拠地を覆滅する計画を実行する。部隊を輸送する船団を護衛するのはコクランである。9月8日、4千名の部隊がペルーに上陸、北方から前進するボリバル Simón Bolívar (1783-1830) の部隊とともに首都リマに入城してペルーの独立を宣言したのは翌年の7月のことである。ペルー総督は内陸部のクスコに逃亡した。この間、ペルー沿岸の封鎖にあたっていたコクランは11月5日の夜カヤオ港に密かに侵入、停泊していたスペインのフリゲート、エスメラルダ Esmeralda  に乗り込んで捕獲した。エスメラルダはこの地域にあったスペイン海軍ではもっとも有力な艦でありその喪失はペルー周辺海域の力関係を大きく変えた。

エスメラルダの捕獲


 コクランの貢献は明らかであり何よりその大胆な行動は民衆の強い関心を呼んだ。コクランは英雄になったのである。しかしチリ首脳部のあいだでコクランの評判は芳しくなかった。コクランは傲慢でしかも強欲だった。常に報酬が足りないと不平を漏らしており、サンマルタンは金を要求してばかりいるコクランを「金ピカ卿 el metálico lord」と呼んだ。コクランがセントヘレナに流刑となっているナポレオンを南米の皇帝として擁立するという噂まで流れた。1822年11月29日、コクランはチリ海軍から退く。

ブラジル海軍

 コクランはこちらも独立戦争の最中だったブラジルに向かう。ナポレオンがイベリア半島を征服したときスペイン王室はフランスに捕えられたが、ポルトガル王室はイギリス海軍の護衛のもと植民地だったブラジルに脱出した。ナポレオン戦争が終結しても王室はポルトガルに帰らず、ブラジルからポルトガルを支配した。これに反発する自由主義者が本国で革命を起こし、1821年国王ホアン6世 João VI (1767-1826) は帰国を余儀なくされる。ブラジルには王太子ペドロ Pedro I (1798-1834) が摂政として残ることになった。
 しかし今度はそれまで事実上の本国として扱われていたブラジルの方がポルトガルの支配に反発する。彼らは摂政ペドロを皇帝に担ぎ上げてブラジル帝国の独立を宣言した。こうしてブラジルの独立戦争が始まる。そこにちょうどチリ海軍で用済みになったコクランが招聘されることになった。1823年3月21日、コクランはブラジル帝国海軍司令官に就任する。
 独立ブラジル政府が支配していたのは南部だけで、中部より北は依然としてポルトガルの支配下にあった。コクランは早速中部バイアに向かう。5月4日、バイア沖でポルトガル艦隊と戦闘になったが勝負はつかなかった。しかしポルトガル艦隊は撤退したので戦略的にはブラジル側の勝利といえる。コクランはさらに北のマラニャンを襲う。守備隊に対してコクランは「水平線の向こうにブラジル艦隊と陸軍が待機している」とはったりをかまして降伏に追い込んだ。さらに部下を派遣して同じはったりを用いて各地を平定させた。北部からポルトガル軍を駆逐したコクランは1824年、首都リオデジャネイロに凱旋する。皇帝はコクレーンをマラニャン侯爵 Marquês do Maranhão に叙任した。

バイア沖での海戦


 しかしコクランはまたも悶着を起こす。貢献に対して報酬が不充分だというのだ。彼はブラジル当局が自分をわざと不当に待遇していると思い込んだ。中部ペルナンブコで起きた反乱がマラニャンに波及しようとしており、コクランは鎮圧のために出向くことになる。鎮圧自体は短期間で完了したが、コクランはマラニャンにとどまって事実上の独立政権を打ち立てる。コクランは政府に1823年のマラニャン征服に対する報酬を要求する。さらに公金を横領し、マラニャンに停泊していた商船を略奪した。皇帝の帰還命令を無視したコクランはブラジル海軍のフリゲートを奪って帰国する。イギリスに戻ったのは1825年6月のことだった。

ギリシャ海軍

 いったん帰国したコクランは今度はギリシャに向かった。長らくオスマン帝国の支配下にあったギリシャ人が独立をもとめて戦っていた、いわゆるギリシャ独立戦争に参加したのだ。1825年オスマン帝国に属するエジプトからギリシャ本土に送り込まれたエジプト兵は格段に精強でギリシャはたちまち劣勢に追い込まれた。この戦争にキリスト教徒のイスラム教徒への抵抗という構図をみていたヨーロッパ諸国ではギリシャへの同情が強かった。ロンドンでは篤志家が提供した資金で海上兵力を組織してエジプトからギリシャへの補給線を断とうとした。その指揮官に選ばれたのがコクランだったのである。コクランは8月にギリシャに到着した。
 しかしコクランはここではあまり成功しなかった。1827年まで苦心を重ねたがエジプト兵の行動を抑えることができなかった。しかしエジプト兵がギリシャ人を無慈悲に扱うさまが伝わるとヨーロッパ列強は和平を勧告するのと同時に英仏露は艦隊を送って圧力をかけた。オスマン帝国艦隊と英仏露合同艦隊はギリシャの西岸ナワリノで睨み合う。
 1827年9月29日の夜、コクランの部下でもとイギリス海軍士官だったヘースティングズ Frank Hastings (1794-1828) がコリント湾北部のイテア港を襲撃した。この知らせを聞いたオスマン艦隊は増援を送ろうとするがイギリス艦隊に妨害される。イギリス艦隊司令官コドリントン Edward Codrington (1770-1851) はコクランに刺激的な行動はとらないよう申し入れたがコクランは聞く耳を持たなかった。その後もオスマン艦隊は増援を送ろうとする動きをやめない。断固たる意志を示す必要があると判断したコドリントンは艦隊をオスマン艦隊が停泊しているナワリノ湾内に侵入させることを決意する。10月20日、狭い湾内でオスマン艦隊と英仏露艦隊は激突する。結果は連合軍の完勝だった。海からの支援を断ち切られたエジプト兵は1年後に撤退する。ギリシャの独立は1830年に承認された。

ナワリノの海戦

帰国

 イギリスに帰国してまもない1831年7月1日、父伯爵が亡くなりコクランは第10代ダンドナルド伯爵を継承した。翌1832年、国王の恩赦をうけ海軍少将の階級で海軍に復職する。しかし海軍では彼に実任務を与えることなく、階級だけが上がっていく年月がしばらく続いた。また爵位を継承したコクランはもう下院議員に立候補することができなくなっていた。
 恩赦から15年が経った1847年5月22日、ヴィクトリア女王はコクランをバス勲爵士に再叙任する。これをきっかけとしてコクランはイギリス海軍でも全面的に名誉回復することとなった。海軍中将に昇進していたコクランは北アメリカ戦隊司令官に任命され1851年までつとめる。クリミア戦争ではコクランをバルト海方面の司令官にするという案もあったが独断専行のおそれがあるとして見送られた。
 事実上の引退生活に入ったコクランは自叙伝の執筆などで過ごした。1860年10月3日、ロンドンで腎臓結石の摘出手術を受けていて亡くなる。毎年5月にはイギリス駐在のチリ海軍武官がコクランの墓前に供花の儀式を行なっている。

おわりに

 チリ海軍では代々アルミランテ・コクラン Almirante Cochrane (コクラン提督)という艦名をそのときどきに自国海軍を代表する軍艦に命名してきました。以下の記事にも名前は出てきます(未完成ですが)。

 チリ海軍にとってよほど由緒がある艦名なのだなと思いながらもラテン系らしくないその名前に違和感を感じて、由来を調べてみたのがコクランについて初めて知るきっかけとなりました。
 冒頭で少し触れたとおりウィキペディアには「ホーンブロワーやジャック・オーブリーのモデルになった」という記述もあって「ほんまかいな」と思いましたが、本文中にも書いた通り自叙伝が出ておりこれだけ自己顕示欲が強ければさぞ面白おかしく描かれているんだろうと想像すれば、あり得ない話ではないなとも思うのでした。

 ものすごく遠い関連書籍になります。


 なお画像はウィキペディアより引用しました。

 ではもし機会がありましたらまた次回にお会いしましょう。

(カバー画像は1874年に就役したチリ海軍装甲艦アルミランテ・コクラン)

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