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南米ABC三国の建艦競争

 むかしツイッターに投稿した内容ですが加筆してまとめてみます。

南アメリカ大陸

 スペインとポルトガルの植民地だった南アメリカ大陸では、ナポレオン戦争で本国が征服され統制が緩んだのをきっかけとして19世紀最初の四半世紀にほぼ全域が独立した。大半を占めていた旧スペイン領では統一国家を目指す動きもあったが、各地域の利害が一致せず各地に新国家が分立することになる。

南アメリカ大陸での各国領土の変遷

 この中ではアルゼンチン、ブラジル、チリのいわゆるABC 3国が国力も大きく、長い海岸線をもつことから比較的強力な海軍を保有し、互いに牽制しあっていた。ペルーも当初は有力な海軍国のひとつだったが1879年に起こったチリとの戦争で敗れ(太平洋戦争 War of the Pacific)、以後いきおいを失った。

弩級艦の登場と波及

 日露戦争の戦訓をうけ、1906年イギリスは画期的な戦艦ドレッドノート HMS Dreadnought を就役させた。結果として既存の戦艦はその価値を大きく減じ、各国が同じスタートラインに立ったことになる。列強海軍はドレッドノートに匹敵する弩級艦を競って建造するようになり、建艦競争が始まった。
 弩級艦の建造は他国にも波及した。当時、地域で近隣諸国と緊張関係にあった国々では、いち早く弩級艦を取得することで優位に立とうとしたのだ。例えばギリシャとトルコはともに弩級艦の取得を目指した。そしてこうした動きはヨーロッパから遠く離れた南米にも波及した。

ブラジルの海軍拡張計画

 1904年にブラジルは大規模な海軍拡張計画に着手し戦艦の建造をイギリスに発注していたがドレッドノートの情報を得ていったん中断して計画を再検討した。戦艦から潜水艦までを含む意欲的なものとなり、イギリスで建造中の戦艦は設計を変更され弩級艦となった。ひとまず2隻を建造し、おって3隻目を建造するという計画である。それぞれミナスジェライス Minas Geraes、サンパウロ Saõ Paulo と命名された両艦は1910年に相次いで就役し、当時世界でもっとも強力な戦艦と呼ばれた。両艦の就役と前後して予定通り3隻目がイギリスに発注されたがまもなくキャンセルされた。すでにイギリスでは超弩級艦が建造されつつありそれに対応する必要があったためで、翌1911年に改めて建造が開始された。

進水するミナスジェライス

アルゼンチンとチリの反応

 ブラジルの計画にアルゼンチンとチリは反応した。アルゼンチンではブラジルが建造中の2隻の戦艦のうち1隻の引き渡しを要求し、拒否された場合は陸軍でブラジル首都リオデジャネイロを占領するという提案がなされたという。幸いこれは採用されなかったが、対抗するための海軍力強化は急務であり1908年議会は予算を承認した。チリでは1906年に大地震が発生しており、また主要輸出品である硝石の価格低下もあって財政難だったが、1910年にいたって予算が承認され戦艦の建造に道筋がつけられた。
 アルゼンチンは米英仏独伊の5カ国による提案の中からアメリカを発注先として選んだ。もっとも安価だったためともいわれる。ブラジルのミナスジェライス級とほぼ同等の武装を備えるが、機関や防御は進んでいた。1910年に2隻の建造が開始され、それぞれリバダビア Rivadavia、モレノ Moreno と命名された。

建造中のリバダビア


 チリは3国のうちでもっとも出遅れたが、そのぶん最新のトレンドを取り入れることができた。ブラジル、アルゼンチン両国の戦艦が30cm砲を搭載する弩級艦にとどまるのに対し、チリ海軍が計画したのは36cm砲を搭載する超弩級艦であった。この時点で超弩級艦を実際に建造していたのはイギリス海軍だけであり、イギリス式の設計によってイギリスで建造されることとなる。1隻目の契約と建造開始は1911年、2隻目は1912年となる。それぞれアルミランテ・ラトーレ Almirante Latorre、アルミランテ・コクレーン Almirante Cochrane と命名される。

第一次世界大戦

 このころ、イギリスでブラジル向けに1隻、チリ向けに2隻、アメリカでアルゼンチン向けに2隻の戦艦が建造されていた。ブラジルは1913年にイギリスで建造中だったリオデジャネイロ Rio de Janeiro をオスマントルコ帝国に売却し、代わって当時まだイギリスでも建造中だった38cm砲を搭載する戦艦を計画する。ブラジルがリオデジャネイロを売却したのをうけてアルゼンチンもアメリカで建造中の戦艦の売却を模索した。しかしアメリカ政府が潜在的な敵国に渡る恐れがあるとして反対し、その一方でアメリカ海軍が引き取りを拒否したため話はまとまらなかった。
 1914年夏に第一次大戦が勃発したが、アメリカはまだ中立を保っており2隻の戦艦はそれぞれ1914年と1915年にアルゼンチンに引き渡された。ブラジルが計画していた戦艦はキャンセルされ、オスマン帝国に売却された戦艦はイギリスに没収された。
 チリがイギリスで建造していた戦艦のうち1隻はすでに進水済みであり、もう1隻は船台上で建造中だったが、両国政府の交渉の上イギリス政府に売却された。イギリスはひとまず借用を提案したが、戦後買い戻すという約束での売却に落ち着いた。第一次大戦のためチリは戦艦を入手できなくなり、アメリカに発注したアルゼンチンと明暗を分けることになった。
 イギリスがチリから入手した2隻のうちアルミランテ・ラトーレはカナダ Canada と改名されてイギリス艦隊に編入され、1916年に起きたジュトランド海戦にも参加している。アルミランテ・コクレーンの建造は中断され、戦争末期になって空母に改造されてイーグル Eagle として就役したが戦争には間に合わなかった。
 ブラジルは1917年にドイツに宣戦布告したが、アルゼンチンは中立を維持した。両国の戦艦は自国海域の警備にあたり直接戦闘に参加することはなかった。

戦後

 戦後イギリスは約束通り戦艦カナダをチリに売却し、もとの名前でチリ海軍に編入された。しかし空母に改造されたもう1隻は戦艦への復帰工事をイギリスの負担で行うようチリが要求したため話がまとまらずイギリス海軍に残った。

チリ海軍編入後のアルミランテ・ラトーレ


 結局3国が取得した戦艦はブラジルが2隻、アルゼンチンが2隻、チリが1隻となったがチリの戦艦は格段に強力であり戦力としてはほぼ同等とみていい(少なくともカタログ上では)。
 第二次世界大戦ではブラジルは1942年に連合国側で参戦したが、アルゼンチンとチリの参戦は末期となった。しかし3国とも戦艦は自国水域にとどまっており実戦には投入されなかった。あわせて5隻の戦艦は1950年代に相次いで解体される。

おわりに

 南アメリカ大陸諸国の関係はなかなか一筋縄ではいかないもので、緊張関係が実戦に発展してしまうこともあったし、その一方で協力したりすることもあったのですが、20世紀はじめに3国のあいだで起きた建艦競争はそうした複雑さを凝縮したものともいえます。

 ではもし次の機会がありましたらまたお会いしましょう。

参考文献

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