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何かを求めていない自分と、普通でいいと思えること−「自由」と「自信」の相関関係−

「自信」は、「自由(の精神)」とかなり密接に結びついているのではなかろうか?

最近はそんなふうに考えています。


自信という言葉を耳にする時、それは「能力」とか「達成」とか「成果」とか、いわゆる下から上へ向かう力(の元になる源泉)、あるいは(確固たる)実績に基づいた向上心のような文脈で語られることが多いですよね。

「根拠のない自信」などという使われ方からして、実績もなければ(証明できるような)能力もないのに、なぜあんなに自信が持てるんだと、やや皮肉をこめて言われたりすることが多い。


しかし自信とは、果たしてそのような類いのものなのでしょうか?


アドラー心理学の第一人者の一人である、岸見一郎先生の著書『アドラー 性格を変える心理学』の中に、こんな一文を見つけました。

この人の前では普通にしていればいいと思えること、それが自信なのです。
自信を持つとか、自信がないと駄目だとか考えてしまうと、何かとんでもない自分でなければいけないと思うかもしれませんが、そうではなくて、「この人の前ではいい格好をしなくていいな」と思えること。そこには虚栄心も嫉妬もありません。そこを目標にするのであれば、それほど難しいことではないでしょう。49〜50


自信とは、普通にしていればいい(そのままでいい)と思えること。私はこの定義に、手ばなしで共感します。

つまり自信とは、下から上に向かうことを前提にしているわけではなく、何か大きなことを成し遂げたり成功を目指したりするわけでもなく、


今ここにいる自分、普通の私でいいと思えること。それが自信なのだと。


そもそも自信とは「自分を信じる」と書くわけですから、この字面(じづら)を素直に解釈すれば、岸見先生の定義はかなり腹落ちするものではないかと思うのです。



そして自信は、「自由(の精神)」と密接な関係があるのではないか?というのが私の最近の気付きです。

それは『職業としての小説家』を読み返していて、村上春樹さんが「オリジナリティ」についてこんなことを書かれていたからです。


これはあくまでも僕の個人的な意見ですが、もしあなたが何かを自由に表現したいと望んでいるなら、「自分が何を求めているか?」というよりはむしろ、「何かを求めていない自分とはそもそもどんなものか?」ということを、そのような姿を、頭の中でヴィジュアライズしてみるといいかもしれません。……略……  「何かを求めていない自分」というのは蝶のように軽く、ふわふわと自由なものです。手を開いて、その蝶を自由に飛ばせてやればいいのです。そうすれば文書ものびのびしてきます。考えてみれば、とくに自己表現なんかしなくたって人は普通に、当たり前に生きていけます。しかし、にもかかわらず、あなたは何かを表現したいと願う。そういう「にもかかわらず」という自然な文脈の中で、僕らは意外に自分の本来の姿を目にするかもしれません。102頁



村上さんの言う「何かを求めていない自分」と、岸見先生の言う「普通にしていればいい」と思えること(そのような自分)」は、どこか似ていると思いませんか?


何かを求めていない自分。何かを成し遂げたり、何者にもなろうとしていない自分。普通にしていればいい、そのままでいいと思える自分。

それは自由な表現をすることができる自由な精神状態であると同時に、自信のある私なのです。

何ものをも求めておらず、そのままでも全く問題はない。

「にもかかわらず」行動せざるをえない、表現せざるをえない自分がいる。そこに本来の「私」の姿を見つけることができるのかもしれないと。


これは私にとっては、大きな気付きです。

もういい加減、「もっともっと」や「まだまだ」はやめようと。「こうあるべきだ」とか、「こうでなければならない」を手ばなそうと。

これをアドラー心理学では、「自己受容」と呼んだりしますが。

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