見出し画像

「ただ、そこに、居るだけ」に意味はあるのか?-自立か依存か、居場所とは何か-

『居るのはつらいよ』(医学書院)を読み終えました。本当に素晴らしい本で共有したいことが山ほどあるのですが、できるだけポイントをしぼって書きます。

本書は副題にもある通り、「ケア」と「セラピー」の違いを徹底的に「現場感覚」で書き切った、いや、描き切った作品です。

冒頭から何度も出てくる「それでいいのか?」という声。それはセラピーを志す著者が「ただ、いる、だけ」のケアという仕事に対して、「それは価値を生んでいるのか?」「それは何の意味があるのか?」という自分自身への「問い」です。

この問いは、物語の最後の最後まで、一貫した主題のように著者の中で鳴り響くのです。

臨床心理士である著者が勤務することになったのは、鋭い日差しが肌を焼く沖縄県那覇市の郊外。統合失調症などの神経疾患を患った人たち(メンバーさん)を朝の8時半から夜6時半まで預かるデイケアという仕事でした。

セラピー(カウンセリング)の仕事ももちろんあるのですが、デイケアのほとんどの時間は、メンバーさんと、ただ、一緒に、いる、だけ。なぜならそれがケアの仕事だからです。

セラピーが、傷に向き合い、介入し、ニーズを変化させることで、自立や成長を促す仕事だとしたら、

ケアの目的はまず「傷つけない」こと。そして支えることでニーズを満たし、依存を許容することで、生存や安全を確保してやること。

つまり、セラピーとケアの仕事は真逆のものなんです。セラピーは変化を与えるので時間は直線的に流れていきますが、ケアは変化がむしろ起こらないように「蓋をしてしまう」ので、時間はグルグルと円環的に動き続けるだけ。前に進むことはなく、ただ、そこにとどまるのだと著者は言います。

だからケアの仕事は、ただ、そこに、いる、だけ。

しかし、「それで、いいのか?」という問いは、果たして著者だけのものだったのでしょうか?

本書は、喪失の物語であるとも言えます。
著者と著者の仲間(スタッフ)たちは、なぜ敗北し、なぜ喪失していくのか。

著者はやがて気付きます。ケアとセラピーは、二項対立した2つの職種ではなく、「人間関係の2つの成分」なのだということに。それは両者共に、人生にとってかけがえのないものだったのです。

おそらくどんな業界にも、『セラピー』的な仕事と『ケア』的な仕事は同時に存在しています。

私はどちらかといえば著者と同じで、『セラピー』的な仕事をしたいと思っているタイプの人間なのかもしれません。しかし私の周りには『セラピー』的なものを謳いながらも、実際やっている仕事は『ケア』的な人たちが実に多いことに気付きます。そう、実に多いのです。

なぜなら人は、「大丈夫だよ」と言ってほしいし、「そのままでいいんだよ」「変わらなくていいんだよ」と言ってほしい。そしてできることならば、何も言わずに「ずっとそばに居てほしい」からです。

それゆえに、そこにお金が集まる原理もよく分かるんです。(ごめんなさい。これ以上はネタばれになるので書けません。)

昨夜、2人の子どもを寝かしつけていて思ったんです。一緒に寝落ちしてしまい、夜中に目を覚ました時、子どもが静かな寝息を立てていて、その屈託のない寝顔を見ながら。ああ、俺はケアしながら、ケアされているんだなと。

そう、ケアは「与える者」と「与えられる者」との境界をあいまいにします。与えながらも「与えられている」という感覚は、セラピー派の私の胸を心地よい痛みでしめつけます。ケアは、人生になくてはならない成分なんです。それは確かに必要なものなんです。

しかし…

私には著者のつぶやきが聞こえます。

「それで、いいのか?」と。

著者がその仲間と(多くのものを失いながら)4年にわたって支え続けたデイケアは、これからもずっと、多くの変わることのないメンバーさんたちのアサイラム(居場所)であり続けることができるのでしょうか?

「それで、いいのか?」

あるいはこの問いは、その「居場所」を守り続けるために、永遠に繰り返されるべき問いなのかもしれません。

興味を持たれた方はぜひ読んでみてください。臨床家・東畑開人は、ちょっと笑えてちょっと哀しくて、あきれるほど弱くて、愚かなほどに繊細な、そんな人たちの「居る」世界へ、あなたを連れていってくれますよ。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?