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カフェでの妄想-さまざまな人間模様-

喫茶店のことをカフェと呼ぶようになって久しいですが

私もカフェにはよく行きます。カフェは原稿を書いたり、集中して本を読んだりするにはまさにうってつけの場所です。

どうしてだろう。あのこうばしいコーヒーの香りと、適度なざわめきが心を落ち着かせるんでしょうか。


私は加熱式タバコ(iQOS)をやるので、最近のお気に入りはもっぱら「ドトール」です。

ドトールには(お店にもよりますが)加熱式タバコだけを吸えるゾーンがあり、いわゆる喫煙ゾーンのようなヤニ臭さを感じずに過ごすことができるからです。


私は教育系の雑誌(月刊誌)でアドラー心理学の連載をもっているので、締切が近づくと、たいていノートPCを持ってカフェにこもります。

自室にいる時のように参考文献をすぐに参照できない不便さはあるものの、カフェでの作業はその代償を払ってもおつりがくるくらい、私にとっては集中できる場所です。

自室だとダラダラと考えてしまい、タイピングがなかなか進まないことが多いのですが、カフェだと時間を気にするせいか、「とにかくここまでは書いてしまおう」という小さなゴールが見えるからかもしれません。

仕事だけでなく、大好きなミステリー小説やSF小説の世界にどっぷり浸かりたい時にも、私はカフェに行きます。小説というものは必ずしも冒頭から面白いわけではなく、その世界観にハマるのにある程度の時間がかかります。つまり読書の初速をつけるのに、カフェは私にとって最適な場所なのです。


そんなカフェで作業しながら、最近気づいたことがあるんです。


それは、一緒に座っていても全く話そうとしない二人連れがいること。


男女のカップルらしき二人連れもいれば、同性どうし(友達どうしであろう)二人連れもいます。彼らは飲み物を置いたテーブルに向かい合って座り、一言も話さずに、ただただお互いのスマートフォンをいじっているのです。

それなりの時間を(というのはちょっとした時間ではなく、30分から1時間、時には2時間近くを)カフェでそのようにして過ごす二人連れが、意外にも少なくないということに気づいたのです。


彼らはいったい何のために、一緒にいるのだろうか?


私はそう思ってしまうのです。ただ互いのスマホをいじくっているだけなのに、一緒に、向かい合って座っている意味があるのだろうかと。

会話もせずに向かい合って座っていることに、息苦しさは感じないのだろうかと。



しかし、私は思い直します。

きっと私のような部外者には理解できない、深い理由があるのかもしれない。

あえて言葉を交わさない理由、つまり喧嘩やいさかいなどで関係性がきわめてセンシティブなのかもしれないし、あるいはもっと深淵で、形而上学的な理由からそうしているのかもしれない。あるいは…


PCの画面や紙の本に疲れた時、私は顔を上げてそういう二人連れをチラ見しながら、その状況と心境をニヤニヤと妄想してみます。そしてこれも、カフェ時間の楽しみの一つになりつつあります。


話は変わりますが、カフェといえばやはりこの人を思い出しますね。

植草甚一さん。

この人もコーヒーが大好きだったんだよなあ。





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