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死と幸福のイメージ

僕は長い間、人生と幸福とは何のためにあるのかを考えましたが、
僕の出した答えは「死を肯定的に受け入れるようになるため」という
結論でした。
人生は死を肯定的に受け入れられるようになるための刹那の積み重ねであって、幸福感とは、死を肯定的に受け入れられる状態になりつつあるという
実感であり、それが人生の途中精算のような形で表れてるのだと思います。

そして「今死んだら悔いは無いか?」という問いに対して、イエスと答えられるような状態を「幸福」と呼んでいると思います。
「幸福感」と「幸福」は似ているようで感じる部分が別です。
幸福感は「無意識」で感じるものに対し、
幸福は「事実を反芻」して意識として感じるもののように思います。
言葉が難しくなって申し訳ないです。
感覚として幸福感は

「なんか良いよ~、いい感じ、ちゃんとできてる」

という、理論ではなく感覚的なものであって、
幸福は

「あの時こういう選択ができたから悔いはない、今死んでも後悔はない」
という事を意識的に理論立てて説明できるほど整理された状態という
イメージです。

幸福感は快楽的なイメージですが、幸福とは地に足がついた
明鏡止水のような状態で実感するイメージです。
嬉しいという事と、後悔がないという違いというとわかりやすいかも?

幸福感というものは自分の行いと、周囲の反応が理想的な状態で
一つの結果となった時に訪れる瞬間的なものですが、
幸福とは冷静になった時に幸福感の積み重ねを
思い出として噛みしめるような感じです。

要は自分に胸を張って生きられたという積み重ねられた実績が
幸福というものかと思います。

良い死に方をする時に必要なのは幸福感ではなく、幸福です。
幸福感に満たされた状態でないと死を肯定できないということは
死ぬ時に人生最高の状態じゃないと駄目ということです。
常に人生最高の状態で死を迎えられるほど人は幸運ではありませんし
自分の死をコントロールできる存在でもありません。
人生は山あり谷ありであり、良くない状態も当然あります。
幸福感とはその瞬間の点数であり、幸福とは刹那を積み上げてきた
人生の平均点のようなものです。
死神に提出するのは最高得点ではなく、平均点です。
だから、過去に最高の名誉や金銭を得たからといって、
その後の人生が良くないものだと、人は幸福に死を迎えられません。
人は今この瞬間を常に「幸福」つまり自分に胸を張れるような
状態にしなくてはならない。
つまり人生の平均点を上げておかなくてはならないのです。
それが幸福の追求だと思います。

大切な人と喧嘩した状態で死別するのは嫌でしょう?
取り返しがつかないことです。
だから喧嘩してもすぐ仲直りするべきなのです。
そうでなければ、もし喧嘩した状態で死ぬとしたら
取り返しのつかない後悔が残り、死ぬ前に後悔に苦しめられることになる。
人生は今この瞬間、刹那の積み重ねであり、その刹那の選択が
自分に対して胸を張れるものでないと、蓄積した後悔が
死という人生の総決算においてのしかかってくるわけです。

そして、人はいつ死ぬかわからない

不謹慎な話ですが、この間の地震も死者が出ていますが、
恐らく亡くなった方の中に「今日自分は死ぬ」と思ってた人は
一人も居ないと思いますし、戦争や交通事故などによって
毎日運が悪かっただけで人が死んでます。
それが現実であることを、我々は忘れがちです。

だから人は常に自分に胸を張れない選択肢をしないよう努力しないと
結局いつ降り掛かってくるかもわからない死を前に
後悔をすることになるのです。
後悔こそが不幸の源泉です。
後悔がないことが幸福です。
死とは不幸と幸福を秤にかけた総決算です。
完璧な幸福はありえませんが、ならべく平均点を上げておきたいものです。

皆さん、死神というとどんなイメージを浮かべますか?
多分↓のようなイメージだと思います


受け継がれたイメージのせいもあるでしょうがこんな感じでしょう

僕は思います。
死神は本当にこのような負の雰囲気をまとった
イメージ通りのものなのでしょうか?

このイメージは僕らが勝手に作り上げた、死への恐怖、
そして、誇り高い人生を生きられなかった後悔というものを
象徴したイメージなのではないでしょうか?

恐らく、後悔のない人生を歩めた人にとって、
死神はドクロ姿で鎌を持っているような姿ではなく、
誇り高き人生を歩んだ人を迎えに来る
もっと明るい姿をしているものだろうと思います。

全く後悔のない人生を歩める人はそう居ないと思いますので、
大体の人には死神は黒装束をまとって、鎌を持った姿で
現れるかもしれません。

ただ、少しでも誇り高い人生を歩めたなら、
たとえ黒装束をまとった所謂死神からでも

「お前の誇り高き生き様、しかと見届けた。」

ぐらいのねぎらいの言葉はいただけるかもしれませんよ。
死という概念からそういうねぎらいをもらえたなら

「ああ、生まれてきてよかった、悪くない人生だった」

と思えるのではないでしょうか?
その死の瞬間のために、僕らは今という生の瞬間をより良いものに
変えていく勇気が必要なのだろうと思います。

そうやって、より後悔の少ない、誇りある人生を生きられれば、
死ぬ時はその自負に見合った姿で死神は現れ、
ふさわしい言葉をかけてくれるでしょう。

死神の姿はあなたの生き様で変わる。
誇りある人生を生きられたなら、死はネガティブなものではなく
むしろポジティブな集大成となる可能性がある。

僕らは人生をより良く変えていく力があり、
死を肯定できるようになるほどの意志力を持っている。
それを行動に移したか否かの違いでしか人生の価値は変わり得ない。
自分の人生に点数をつけるのは自分ですが、
死神に提出する書類に嘘を書けないのも事実です。

死は100%全ての生き物に訪れます。
ただ、遅いか早いかの違いしか無いし、いつ死ぬかもわからない。
たとえ若くして死ぬことになっても、後悔のない人生が歩めていれば
前向きな死が訪れるし、無駄に長生きしても、
つまらない生き方をしていたら後ろ向きな死を迎える事になる。

どちらを選びたいかは一目瞭然ですよね?
僕らの人生の蝋燭の長さはそれぞれ違ったものでしょうけど、
炎の色は美しいものでありたいものですね。
その炎の色を死神は見ていますし、
その炎の光によって闇から映し出される死神の姿は変わるのです。

死を思い、より良い今を生きましょう

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